2011年8月24日 16:21 (
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仙台、石巻、女川のこと
8月11日より16日の盆休みを使って自宅(といっても誰も住んでいない)の仙台へもどり、善導寺(浄土宗)でのお盆施餓鬼会及び檀信徒会総会に参加し、法要を終え、北山霊園の墓参りいたしました。長男によると3月11日の震災時には立っていた墓石は全て倒れたとの事、重たい墓石の復旧には大変な労力、時間がかかったものと思われた。
8月14日にはバスで仙台から石巻まで行き、更に乗り換えて女川へと向かった。JR仙石線、女川線の線路は水で流されて不通で、行けるのはバス(臨時のJRバスと宮城交通バス)のみであった。
10時50分のバスで石巻から女川まで進む。途中石巻湾に流れ込む北上川の土手のかなり長い距離、ずっとブルーのビニールシートで覆われていたのが印象的であった。
川は穏やかに流れていたが石巻の町の繁華街は家が崩れている。交通整理を多くのブルーの制服の警察官が行なっていた。シグナルは点いていないのである。バス道と平行に走る所々の見える女川線の線路は赤錆たままだ。
バスから見える風景は家がひっくり返っている、あるいは崩れている家が多い。北上川沿いの家はことごとく破壊されている。松の木も赤く枯れている。
瓦礫の山、崩れた家並みの中をバスはゆっくりと女川へ向かう。道路両側はことごとくやられている。途中の墓地の墓石も多くが倒れたそのままだ。
伊原津バス停のそばではボランテアの皆さんの一団が、一生懸命スコップをもってドロかきをやっていた。この暑さ(この日は極めて暑かった)の中、ご苦労様です。
瓦礫の山、崩れた家、庭木も倒れている。渡波も家が崩れたまま誰もいない、大きな松の木が枯れているが、ひどい。その日、渡波小学校ではお祭りでヒトが集まっていた。
渡波から女川までの途中、万石浦小学校、中学校あたりまでは大きな被害は無かった。
万石浦は穏やかで被害は少なかったのだろうか。海岸の漁船、漁具も整然といつも通りのように見えた。
浦宿駅もなにも被害は無かったようだ。
そこをすぎていよいよ女川だ。バスは女川第一小学校の高台に向かった。最も高いところにバスが上りつめると、眼下に女川の町が見えるはずだ。
しかし眼下には町は無く、何も無いではないか。ずっと何も無い。見えるのはきれいに整理された道路のみで後は何も無い。
バスはどんどん女川に入ってゆく。JR女川駅は、かつてここに女川駅があったよといわんばかりに札が立っているだけで、線路もない、駅建物も無い、何も無い。バスの終点は高台の小生の母校女川第二小学校の上だった。バスを降りて、いよいよ徒歩である。そこからずっと海の方向(町の繁華街があった方向)に下り、20−30分間ほど、岸壁を石浜へ向かって歩いた。
小生が自宅から小学校へ通った懐かしい路である。
ぬけるようなグリーンのきれいな海だ。暑い中、飛び込んで子供の頃はよく遊んだ海だ。
岸壁淵にあった大きな鉄骨コンクリートの工場が今は中味はがらんどうで、ずっと高いところで、海風を受けて従業員らの着ていたシャツ、ズボンが風でたなびいていた。
海岸淵には漁具等の廃品の山がいくつか数メートルの高さに積み上げられていた。
そのジャングルのような廃品の中に人影が見える。何か金目のものを探しているのでしょう。
海独特の異臭がする。鉄筋コンクリートの3−4階の建物等横倒しになっているものもあり、強烈な波の力ですね。
石浜の日本水産の工場跡にも油脂工場の機械類が廃品としてうず高く積み上げられているだけで、何もない、誰もいない。海鳥と浜辺に打ち寄せるきれいなグリーンの海水の波だけで、人っ子一人いませんでした。
30℃以上の暑い日中、昼になって持っていたジャムパンとペットボトルの水を飲みながら、石浜から女川中心地まで戻りました。
昼頃になると、次第にクルマが多くなってきたようで、やはり様子を見に来たのでしょう。盛んにカメラで写真をとり、建物の被災を見ておりました。
JR女川駅の札のあるバスストップには、暑さでくたびれたような女性が一人バスを待っていました。声をかけると東京からきたとの事で、やはりこちらの状況を目にしたかったのでしょう。管理栄養士の皆さんも機会あれば、この女性のように現場を目に焼き付けてほしいものです。こころの襞が出来ます。
石巻でバスを降り、駅前で飲んだ生ビールはつくづく小生の臓腑に染み渡りました。
石浜である老人が一人ぽつんとしていて、声をかけるといろいろと3月11日の事を聞かせてくれました。
奥さん、娘さんと3人で仮設住宅に住んでいるが不自由で、魚を取るにも船も無く、あっても港も岸壁が崩れてしまい船も着けない。どうして仕事ができるのか。あのまま流されてしまった方が楽だったと言われました。
しかし実感でしょう。
8月14日にはバスで仙台から石巻まで行き、更に乗り換えて女川へと向かった。JR仙石線、女川線の線路は水で流されて不通で、行けるのはバス(臨時のJRバスと宮城交通バス)のみであった。
10時50分のバスで石巻から女川まで進む。途中石巻湾に流れ込む北上川の土手のかなり長い距離、ずっとブルーのビニールシートで覆われていたのが印象的であった。
川は穏やかに流れていたが石巻の町の繁華街は家が崩れている。交通整理を多くのブルーの制服の警察官が行なっていた。シグナルは点いていないのである。バス道と平行に走る所々の見える女川線の線路は赤錆たままだ。
バスから見える風景は家がひっくり返っている、あるいは崩れている家が多い。北上川沿いの家はことごとく破壊されている。松の木も赤く枯れている。
瓦礫の山、崩れた家並みの中をバスはゆっくりと女川へ向かう。道路両側はことごとくやられている。途中の墓地の墓石も多くが倒れたそのままだ。
伊原津バス停のそばではボランテアの皆さんの一団が、一生懸命スコップをもってドロかきをやっていた。この暑さ(この日は極めて暑かった)の中、ご苦労様です。
瓦礫の山、崩れた家、庭木も倒れている。渡波も家が崩れたまま誰もいない、大きな松の木が枯れているが、ひどい。その日、渡波小学校ではお祭りでヒトが集まっていた。
渡波から女川までの途中、万石浦小学校、中学校あたりまでは大きな被害は無かった。
万石浦は穏やかで被害は少なかったのだろうか。海岸の漁船、漁具も整然といつも通りのように見えた。
浦宿駅もなにも被害は無かったようだ。
そこをすぎていよいよ女川だ。バスは女川第一小学校の高台に向かった。最も高いところにバスが上りつめると、眼下に女川の町が見えるはずだ。
しかし眼下には町は無く、何も無いではないか。ずっと何も無い。見えるのはきれいに整理された道路のみで後は何も無い。
バスはどんどん女川に入ってゆく。JR女川駅は、かつてここに女川駅があったよといわんばかりに札が立っているだけで、線路もない、駅建物も無い、何も無い。バスの終点は高台の小生の母校女川第二小学校の上だった。バスを降りて、いよいよ徒歩である。そこからずっと海の方向(町の繁華街があった方向)に下り、20−30分間ほど、岸壁を石浜へ向かって歩いた。
小生が自宅から小学校へ通った懐かしい路である。
ぬけるようなグリーンのきれいな海だ。暑い中、飛び込んで子供の頃はよく遊んだ海だ。
岸壁淵にあった大きな鉄骨コンクリートの工場が今は中味はがらんどうで、ずっと高いところで、海風を受けて従業員らの着ていたシャツ、ズボンが風でたなびいていた。
海岸淵には漁具等の廃品の山がいくつか数メートルの高さに積み上げられていた。
そのジャングルのような廃品の中に人影が見える。何か金目のものを探しているのでしょう。
海独特の異臭がする。鉄筋コンクリートの3−4階の建物等横倒しになっているものもあり、強烈な波の力ですね。
石浜の日本水産の工場跡にも油脂工場の機械類が廃品としてうず高く積み上げられているだけで、何もない、誰もいない。海鳥と浜辺に打ち寄せるきれいなグリーンの海水の波だけで、人っ子一人いませんでした。
30℃以上の暑い日中、昼になって持っていたジャムパンとペットボトルの水を飲みながら、石浜から女川中心地まで戻りました。
昼頃になると、次第にクルマが多くなってきたようで、やはり様子を見に来たのでしょう。盛んにカメラで写真をとり、建物の被災を見ておりました。
JR女川駅の札のあるバスストップには、暑さでくたびれたような女性が一人バスを待っていました。声をかけると東京からきたとの事で、やはりこちらの状況を目にしたかったのでしょう。管理栄養士の皆さんも機会あれば、この女性のように現場を目に焼き付けてほしいものです。こころの襞が出来ます。
石巻でバスを降り、駅前で飲んだ生ビールはつくづく小生の臓腑に染み渡りました。
石浜である老人が一人ぽつんとしていて、声をかけるといろいろと3月11日の事を聞かせてくれました。
奥さん、娘さんと3人で仮設住宅に住んでいるが不自由で、魚を取るにも船も無く、あっても港も岸壁が崩れてしまい船も着けない。どうして仕事ができるのか。あのまま流されてしまった方が楽だったと言われました。
しかし実感でしょう。
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