2012年3月15日 20:34 (
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3.11-石巻、女川の1年後
3/10 長男の結婚式が仙台でありました。翌3/11には仙台から京都まで夜行バスで帰る予定でした。3/11にはバス出発まで、時間がたっぷりありました。そこで早朝にホテルを出て、駅前のバス停で石巻行きのバスを待ちました。長蛇の列で、1台目のバスが満員で乗れない。2台目にかろうじて乗れました。石巻での3.11のイベントがあるのでしょうか、多くのヒトがバス停にはいました。外人が多いように感じられました。外国からこの3.11を目標に、日本の現地にやってきたのでしょう。石巻までバスで進み、JR石巻駅で待っていた女川行きのバスにすぐ飛び乗って、女川へ向かいました。
石巻の町はかなり復旧していました。前回、昨年8月に訪問したときは、街は汚れ、道路は汚れ、信号の壊れたところで警察官が交通整理していたりで、ヒトも余りいなく、店のショーウインドウのガラスは割れ、壁は崩れ、開いている店など殆どなかったのですが、今回はもとの石巻にかなり戻っている感じがしました。街にはヒトがたくさんいました。
途中、北上川の縁をバスは走り女川へ向かいます。8月には北上川の土手はづっとづっとブルーのビニール袋でブロックされてましたが、今回はそれはありませんでした。崩れた家のあとに新しい家が次々に建立されていました。しかし、壊れた家もまだまだたくさんありました。
零羊崎(ひつじざき)神社付近で印象的だったのは、崖っぷちの墓地でした。きれいな墓石に置き換えられたものが、古い墓石の中に混在していました。その中にピカピカの子供地蔵の石仏が多く見られました。子供が石巻ではたくさん被害を受けています。その子供たちのための供養地蔵だろうかと想像しました。
渡波では、大きなネットで覆われた中で土壌化した瓦礫が運び出されていました。渡波小学校はまだ閉校中のようでした。
バスは万石浦、浦宿、女川へ、国道398線を走りました。女川第一小学校には仮設住宅がありました。そこを右にまがりずっと高台にあがってゆきます。女川第一保育所近くまであがると、女川の中心地が一望できます。
昨年8月にはその一望できる女川を見て、建物の何もない箱庭の様な女川に驚いたのです。今回はどうかな? やはり中心地の町並みは、箱庭状で家は全く建つていませんでした。女川は8月のままでした。
しかし遠くに見える海岸線には多くの大型漁船が停泊しているのが見え、以前と違っているなと思われました。以前は全く漁船はありませんでしたから。中心地には3−4個の大きなコンクリートビルの横倒しになっているかたまりがあり、手がつけられずにそのまま放置されてました。
終点の女川第2小学校で下車して、かつて小生の自宅のあった石浜まで、海岸縁を歩きました。
箱庭の様な土台だけ残った家の跡には、多くの花が手向けられていました。そこでご家族がなくなられたのでしょう。
前回にはあったJR女川駅の位置標識の札は今回はありませんでした。JRはみっともないから取り外したのでしょう。
海は相変わらず美しかったです。
女川岸壁は地震で1mほど沈下したようですが、土盛りやらの突貫工事が進み、大型漁船が停まれるようになっていました。やはリ復旧は進んでいるのです。女川漁港としての機能は少しづつ回復しているのでしょう。
石浜近くの旧日水前には、以前はうずたかく瓦礫の山があっちこっちにありましたが、その瓦礫の山はすこしづつ形を変えてました。広いコンクリート打ちの空き地になってました。
広いコンクリート打ちの空き地には、大型瓦礫処理機械が何台も持ち込まれていました。本日は休日のため、ヒトは誰もいませんでしたが、機械はいつもはフル回転で動いているものと思われました。
まず大きな瓦礫を大型の分別機で分別し、更に機械類を使って次々に分別整理している様でした。さいごのものは手作業で分別しているようでした。
この付近、大きな機械が林のように並んでいるのが印象的で、頼もしく感じられました。瓦礫は次々と処理されていると思われました。復旧は進んでいると感じました。しかし住宅地の方は区画整理のプラン作成中なのでしょう。民家は全く建っていないのが現状でした。
住民の方々はどこかで待っているのでしょう。
石巻の町はかなり復旧していました。前回、昨年8月に訪問したときは、街は汚れ、道路は汚れ、信号の壊れたところで警察官が交通整理していたりで、ヒトも余りいなく、店のショーウインドウのガラスは割れ、壁は崩れ、開いている店など殆どなかったのですが、今回はもとの石巻にかなり戻っている感じがしました。街にはヒトがたくさんいました。
途中、北上川の縁をバスは走り女川へ向かいます。8月には北上川の土手はづっとづっとブルーのビニール袋でブロックされてましたが、今回はそれはありませんでした。崩れた家のあとに新しい家が次々に建立されていました。しかし、壊れた家もまだまだたくさんありました。
零羊崎(ひつじざき)神社付近で印象的だったのは、崖っぷちの墓地でした。きれいな墓石に置き換えられたものが、古い墓石の中に混在していました。その中にピカピカの子供地蔵の石仏が多く見られました。子供が石巻ではたくさん被害を受けています。その子供たちのための供養地蔵だろうかと想像しました。
渡波では、大きなネットで覆われた中で土壌化した瓦礫が運び出されていました。渡波小学校はまだ閉校中のようでした。
バスは万石浦、浦宿、女川へ、国道398線を走りました。女川第一小学校には仮設住宅がありました。そこを右にまがりずっと高台にあがってゆきます。女川第一保育所近くまであがると、女川の中心地が一望できます。
昨年8月にはその一望できる女川を見て、建物の何もない箱庭の様な女川に驚いたのです。今回はどうかな? やはり中心地の町並みは、箱庭状で家は全く建つていませんでした。女川は8月のままでした。
しかし遠くに見える海岸線には多くの大型漁船が停泊しているのが見え、以前と違っているなと思われました。以前は全く漁船はありませんでしたから。中心地には3−4個の大きなコンクリートビルの横倒しになっているかたまりがあり、手がつけられずにそのまま放置されてました。
終点の女川第2小学校で下車して、かつて小生の自宅のあった石浜まで、海岸縁を歩きました。
箱庭の様な土台だけ残った家の跡には、多くの花が手向けられていました。そこでご家族がなくなられたのでしょう。
前回にはあったJR女川駅の位置標識の札は今回はありませんでした。JRはみっともないから取り外したのでしょう。
海は相変わらず美しかったです。
女川岸壁は地震で1mほど沈下したようですが、土盛りやらの突貫工事が進み、大型漁船が停まれるようになっていました。やはリ復旧は進んでいるのです。女川漁港としての機能は少しづつ回復しているのでしょう。
石浜近くの旧日水前には、以前はうずたかく瓦礫の山があっちこっちにありましたが、その瓦礫の山はすこしづつ形を変えてました。広いコンクリート打ちの空き地になってました。
広いコンクリート打ちの空き地には、大型瓦礫処理機械が何台も持ち込まれていました。本日は休日のため、ヒトは誰もいませんでしたが、機械はいつもはフル回転で動いているものと思われました。
まず大きな瓦礫を大型の分別機で分別し、更に機械類を使って次々に分別整理している様でした。さいごのものは手作業で分別しているようでした。
この付近、大きな機械が林のように並んでいるのが印象的で、頼もしく感じられました。瓦礫は次々と処理されていると思われました。復旧は進んでいると感じました。しかし住宅地の方は区画整理のプラン作成中なのでしょう。民家は全く建っていないのが現状でした。
住民の方々はどこかで待っているのでしょう。
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