2012年5月 8日 15:50 (
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松田和雄先生の思いで
松田和雄先生(元東北大学教授)は平成23年7月23日にご逝去されました。享年88歳でした。
何十年も前の学生時代、先生のこと、忘れないうちに記録し、皆さんにご参考になることあればと思いました。
小生が知っている先生は、小生が研究室に卒論学生として入ってからで、先生の講義を受けたのもそのころでした。当時まだ助教授でしたが、年齢のいった助教授で、教授昇格などあまり気にされてないのかとも思いました。
初めは、何か我々卒論学生に遠慮しておられるような雰囲気でした。言葉遣いも丁寧で、実はそれは一人一人の学生を大切にしておられたのだと後で気がつきました。先生は極めて冷静でいつも自らを抑えていて、院生、学生に対応していたのではないでしょうか。しかし研究発表会などでは先輩として院生を厳しく指導されていたと思います。
講座のT教授はづっと雲の上の存在で、なかなか我々の名前や顔は覚えてはもらえませんでした。大学の教授とはこんなものかと思ってました。しかし松田先生はひよこのような我々卒論学生の顔、名前でもすぐに覚えておられました。後日、研究室の院生に聞くと、これまで研究室に所属していた多くの卒業生のほとんどの名前を覚えておられると言ってました。
このたくさんの学生の名前を覚えるということは、なかなか大変なことで、小生、おおいに反省させられるところなのです。しかし教員にとっては、これは学生諸君との距離をなるべく近づけるという大切な仕事です。これは我々学生に対し一人前の人間として対応をしてくれたもので、大変にありがたい事でした。果たして現在の自分が学生諸君に対しても同じように対応しているかどうか反省させられるところです。
先生の研究室へのご出勤も朝8時ごろであったろうか、きちんと毎朝定時にはご出勤され研究室におられました。大学教員だからといってルーズな出勤はありませんでした。そんな中、研究室の職員、院生、学生は落ち着いて仕事に取り組んでおられました。先日、アメリカでの学会で、キャンサス州立大学大学院(米)へ留学中の日本人と話しをしたことがあります。いろいろのはなしの中で、アメリカの大学の先生方の生活ぶりを聞いた事があります。どの先生も、毎日、朝早くから夜おそくまで熱心に研究しておられるとの事でした。日本の先生はこの辺が少々だらしないと思ってます。
先生の授業は「糖質化学」だったと思い出されます。阪大の二国二郎先生に東北大学から非常勤を依頼した時、「二国先生は、お前のところには松田がいるではないかといわれて、自分がやるようになったのだ。」と誇らしげに言われたことが懐かしく思い出されます。自分の大学への気持ちを口に出されたのでしょう。
しかし先生の講義内容については極めて興味深かったです。
先生のところで、これまで行なってきた糖質化学の成果が次々と紹介され、そこでは何年卒の誰君がやったものだというように、極めて具体的に卒業生、院生らの名前を挙げて
研究を紹介されたのです。小生などそれを聞いて、おおいに発奮させられました。研究成果などとは遠い世界のあこがれだったものが、そのチャンスがこんなにすぐ身近かにあるのかという思いでした。その時の心理的な目覚めが今にづっと尾を引いていると思っています。大学の講義の学生に与える影響は大きいと心にした一場面でした。
松田先生は、しかしながらご自分の事はちっとも語ってくれませんでした。コージビオース、サケビオースの発見や、更に有機合成法で各オリゴ糖を作り証明された事などは全く聞いた事などなく、だれかがそっと教えてくれたのでした。
その後、社会人になり、仕事で気持ちが落ち込んだ時など先生のところをよく訪問して元気づけられました。そしてまた会社に戻り、その繰り返しでした。その際にも卒業生らの動向も語ってくれ、「彼は今どこどこで、なになにをやっている」など話してくれ、こちらも頑張らねばとそれがいい刺激になったのです。
小さな思いでです。
皆様の何かご参考まで。
何十年も前の学生時代、先生のこと、忘れないうちに記録し、皆さんにご参考になることあればと思いました。
小生が知っている先生は、小生が研究室に卒論学生として入ってからで、先生の講義を受けたのもそのころでした。当時まだ助教授でしたが、年齢のいった助教授で、教授昇格などあまり気にされてないのかとも思いました。
初めは、何か我々卒論学生に遠慮しておられるような雰囲気でした。言葉遣いも丁寧で、実はそれは一人一人の学生を大切にしておられたのだと後で気がつきました。先生は極めて冷静でいつも自らを抑えていて、院生、学生に対応していたのではないでしょうか。しかし研究発表会などでは先輩として院生を厳しく指導されていたと思います。
講座のT教授はづっと雲の上の存在で、なかなか我々の名前や顔は覚えてはもらえませんでした。大学の教授とはこんなものかと思ってました。しかし松田先生はひよこのような我々卒論学生の顔、名前でもすぐに覚えておられました。後日、研究室の院生に聞くと、これまで研究室に所属していた多くの卒業生のほとんどの名前を覚えておられると言ってました。
このたくさんの学生の名前を覚えるということは、なかなか大変なことで、小生、おおいに反省させられるところなのです。しかし教員にとっては、これは学生諸君との距離をなるべく近づけるという大切な仕事です。これは我々学生に対し一人前の人間として対応をしてくれたもので、大変にありがたい事でした。果たして現在の自分が学生諸君に対しても同じように対応しているかどうか反省させられるところです。
先生の研究室へのご出勤も朝8時ごろであったろうか、きちんと毎朝定時にはご出勤され研究室におられました。大学教員だからといってルーズな出勤はありませんでした。そんな中、研究室の職員、院生、学生は落ち着いて仕事に取り組んでおられました。先日、アメリカでの学会で、キャンサス州立大学大学院(米)へ留学中の日本人と話しをしたことがあります。いろいろのはなしの中で、アメリカの大学の先生方の生活ぶりを聞いた事があります。どの先生も、毎日、朝早くから夜おそくまで熱心に研究しておられるとの事でした。日本の先生はこの辺が少々だらしないと思ってます。
先生の授業は「糖質化学」だったと思い出されます。阪大の二国二郎先生に東北大学から非常勤を依頼した時、「二国先生は、お前のところには松田がいるではないかといわれて、自分がやるようになったのだ。」と誇らしげに言われたことが懐かしく思い出されます。自分の大学への気持ちを口に出されたのでしょう。
しかし先生の講義内容については極めて興味深かったです。
先生のところで、これまで行なってきた糖質化学の成果が次々と紹介され、そこでは何年卒の誰君がやったものだというように、極めて具体的に卒業生、院生らの名前を挙げて
研究を紹介されたのです。小生などそれを聞いて、おおいに発奮させられました。研究成果などとは遠い世界のあこがれだったものが、そのチャンスがこんなにすぐ身近かにあるのかという思いでした。その時の心理的な目覚めが今にづっと尾を引いていると思っています。大学の講義の学生に与える影響は大きいと心にした一場面でした。
松田先生は、しかしながらご自分の事はちっとも語ってくれませんでした。コージビオース、サケビオースの発見や、更に有機合成法で各オリゴ糖を作り証明された事などは全く聞いた事などなく、だれかがそっと教えてくれたのでした。
その後、社会人になり、仕事で気持ちが落ち込んだ時など先生のところをよく訪問して元気づけられました。そしてまた会社に戻り、その繰り返しでした。その際にも卒業生らの動向も語ってくれ、「彼は今どこどこで、なになにをやっている」など話してくれ、こちらも頑張らねばとそれがいい刺激になったのです。
小さな思いでです。
皆様の何かご参考まで。
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