2012年6月15日 17:49 (瀬口 正晴)
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大学時代の同窓会
5/7−8に大学時代の同期会がありました。JR仙台駅集合後、仙台市内見物、松島、塩釜見物と向かいました。昨年の震災の様子、特に松島、塩釜の3.11震災後の様子なども見たかったのです。
松島での宿泊はパレス松洲(まつしま)というホテルでした。ホテル一階のフロント前全面には大きなガラス窓があり、そこを通してづっと向うに松島の島々が美しく見えるなかなか景観の良いホテルでした。
このホテルは海に面していながら、今回の大津波の影響は受けなかったようです。それは太平洋からの大津波が途中の数々の島がそのエネルギーをブロックし、更にはこのホテルのすぐ横に流れる大きな川に向かって一気に津波が駆け上がったためとホテル支配人の説明でした。
2日目、松島から塩釜まで観光船で向かいました。穏やかな海の約1時間ほどの航海でした。
沖には懐かしい松島の小さな島々が見られましたが、各奇形の島々は何れも大きな被害はなかったようでした。観光船の止まる岸壁には、しかし2メートルの波があがったとの事でした。船中に流れるガイドさんの話では、「278島あるうち、各島々の被害者はゼロだった。当日、震度7が2分続いた。その後、震度6以上が20数回きた。小学校の高台に逃げた。寒かった。6分経っても津波は来ない。寒いのでジャンパー等着るものを取りに家に帰った。自宅では貯金通帳、保険証、お金を探した。どの家も3−4千万円/年の収入との事。しかし震災のため家具はぐちゃぐちゃで何処に何があるかわからない。そこに津波がきた。これまで見た事もない白い波が沖の方に見えた。大津波だ。大急ぎで高台にあがり、全員助かった」とのことでした。
周辺漁民は津波の情報にいち早く対応し、財産は失いながらも誰一人なくならなかったのです。
塩釜の町をタクシーで走ると、あちらこちらに新しい駐車場がみられました。何れも家屋のあった場所で、津波により流された跡地を駐車場にしているとの事でした。
我々大学の同期生はは30名でした。そのうちすでに一割が死亡し、残り27人 中数名は連絡がとれません。連絡がとれても出席しないものもいました。毎回出てくるのは20名ほどでしょうか。
後日その日の集合写真を見ると、各人のバックには家族らの姿がちらついてくるのです。
殆どの男性は頭は白髪です。表情は落ち着いて、温厚なヒトばかりで、いわゆる人のいいおじいさん、おばあさんの集団という感じです。
卒業して40年以上たち、いままで社会の第一線で活躍してきたヒトばかりですが、中には体調崩してしまったヒト、社会からドロップアウトされたヒト、家庭的に恵まれなかったヒトもいるでしょう。が、とにかく心は一つ、懐かしい昔の同期生の集まりで、気持ちよく集合しました。
すでに仕事に関する話などもなく、お互いに健康に注意してまた集まろうと約束して解散しました。
現在多忙すぎて皆さん方には考えられないでしょうが、年齢がきて、時間にも余裕が出て、こうして集まる時は自分を新たに確認できていいものです。
松島での宿泊はパレス松洲(まつしま)というホテルでした。ホテル一階のフロント前全面には大きなガラス窓があり、そこを通してづっと向うに松島の島々が美しく見えるなかなか景観の良いホテルでした。
このホテルは海に面していながら、今回の大津波の影響は受けなかったようです。それは太平洋からの大津波が途中の数々の島がそのエネルギーをブロックし、更にはこのホテルのすぐ横に流れる大きな川に向かって一気に津波が駆け上がったためとホテル支配人の説明でした。
2日目、松島から塩釜まで観光船で向かいました。穏やかな海の約1時間ほどの航海でした。
沖には懐かしい松島の小さな島々が見られましたが、各奇形の島々は何れも大きな被害はなかったようでした。観光船の止まる岸壁には、しかし2メートルの波があがったとの事でした。船中に流れるガイドさんの話では、「278島あるうち、各島々の被害者はゼロだった。当日、震度7が2分続いた。その後、震度6以上が20数回きた。小学校の高台に逃げた。寒かった。6分経っても津波は来ない。寒いのでジャンパー等着るものを取りに家に帰った。自宅では貯金通帳、保険証、お金を探した。どの家も3−4千万円/年の収入との事。しかし震災のため家具はぐちゃぐちゃで何処に何があるかわからない。そこに津波がきた。これまで見た事もない白い波が沖の方に見えた。大津波だ。大急ぎで高台にあがり、全員助かった」とのことでした。
周辺漁民は津波の情報にいち早く対応し、財産は失いながらも誰一人なくならなかったのです。
塩釜の町をタクシーで走ると、あちらこちらに新しい駐車場がみられました。何れも家屋のあった場所で、津波により流された跡地を駐車場にしているとの事でした。
我々大学の同期生はは30名でした。そのうちすでに一割が死亡し、残り27人 中数名は連絡がとれません。連絡がとれても出席しないものもいました。毎回出てくるのは20名ほどでしょうか。
後日その日の集合写真を見ると、各人のバックには家族らの姿がちらついてくるのです。
殆どの男性は頭は白髪です。表情は落ち着いて、温厚なヒトばかりで、いわゆる人のいいおじいさん、おばあさんの集団という感じです。
卒業して40年以上たち、いままで社会の第一線で活躍してきたヒトばかりですが、中には体調崩してしまったヒト、社会からドロップアウトされたヒト、家庭的に恵まれなかったヒトもいるでしょう。が、とにかく心は一つ、懐かしい昔の同期生の集まりで、気持ちよく集合しました。
すでに仕事に関する話などもなく、お互いに健康に注意してまた集まろうと約束して解散しました。
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