2012年8月22日 20:28 (
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「最後の海軍大将 井上成美」(宮野 澄著 文春文庫)を読んで
本著は、先日森永製菓研究所の親睦会で三島へ出かけた際、その会の直前にお会いした松木寿助氏(仙台二高、高4)からいただいた本です。中には宮城県仙台第二高等学校同窓会報(第42号)が挟まれており、その巻頭言に前会長西澤潤一氏(中44) の書かれた巻頭言がありました。この中に本校卒業生井上成美提督の紹介と彼に関する旧著の再販された旨の記述があったのです。
本著を北京出張の機中で読み始めました。井上成美氏は第2次世界大戦、戦中、戦後、最後の海軍大将とか、沈黙の提督とか言われた人で、その存在は西澤潤一会長の同窓会の講話に良く引き合いに出されてきました。
井上成美氏は中7回卒(明治40年、1907年)の方です。第2次世界大戦、日本が戦争へ突入する頃の海軍軍人で、米内光政、山本五十六両提督と力を合わせて戦争反対に動き、さらに戦中いち早く戦争終結に道をひらいた軍人として歴史上著名な方です。
宮野澄氏は、井上成美氏の事に関心を抱かれ、事細かく彼の生涯を本著にしたためられました。興味深い本でした。宮野澄氏がまず本の扉に書かれている事は、氏がなぜ井上成美氏に興味を抱かれたかという事でした。戦争直前の政治家、軍人達の不穏な動き、5.15、2.24事件、三国同盟の動きに対して、冷静に国際状況を研究し、国の安全を自らの命をかけて守ろうとした事、そしてそのベースにある大きな常識力、判断力に興味を抱かれたのでしょう。井上成美氏のとった行動の正確さは歴史的にも明らかです。
それはさておき、氏が井上成美氏に驚かされた事は、戦中にあって、敗戦が見え始める頃になって、海軍兵学校(江田島)校長として極めてまともな教育を行なった事でしょう。
井上成美氏は、この戦争が敗戦となることを基本とし、この数千名の若者達に人殺しの仕方を教えるのではなく、敗戦後彼らがどうやって生きのびて行けるのか、更には敗戦の日本国の立て直しまで考慮して、何と英語教育に力を入れたのです。
当時、兵学校の入試に英語を入れるべきかどうかと教員間で決を取ったといいます。当然ほとんどの教員は英語入試に反対であったが、これまで通り入試科目に英語を使うことをそのままとすると校長の断で存続させたのです。英語ばかりでなく、普通学を行なう事が第一主義であるとも述べています。普通学とは今で言う教養科目の事です。
本著の中で小生が強く感じたのは、井上成美氏の人間感です。家畜場のような兵学校の生活をみて、「国のためだなんていって、勇んで学校に入ってきて、戦争に負けて中途で放りださせてどうなるのか。勿論体は丈夫になっているし、躾けは十分してありますから、人作りは出来ているし、だけど頭の使う方は空っぽな人作りでは困る。だから普通学だ」と、「東大を出たような学士様なら、戦場で十分に使えると見たのです。いわゆるジェントルマンならば、デューテイ観念があって、レスポンスビリッテーを身に付けた人間ならばそのまま戦争に出しても使えるという結論を私は持っていた」と述べています。
戦争中の話を読んだり、聞いたりする場面が多くあったが、小生の興味は、その人殺し集団の中心にいる人間に果たしてインテリゲンスがあったかどうかにつきます。そして、自分の部下を、あるいは部隊を殺さずに、うまく生き抜いてきた部隊の中心の人間は、必ず教育のあるインテリであったような感慨を抱いています。死地にあって、ひとを殺さずに、部隊を生きのこらせた軍人には強いインテリゲンスを感じてきました。
仙台二中の精神もこの辺にあったのではないでしょうか。雑学を子供の頃にしっかり頭に入れて、その雑学と軍事学(人殺し学)との間の関連性を読み取らせる力を与える教育が当時の仙台二中にはあったのでしょう。若いヒトの将来を思って、反対者を押し切ってこうした思い切った教育を、しかも戦争終了間際の混乱期に行なっています。これも正しい判断であったと思います。
終戦後、幾多の兵学校卒生が日本の社会を立て直す軸になったことは確かです。大学教育を受けたとき、ある教育学の教授を思い出します。彼は兵学校出身で、戦後大学に入り直し、学者になられた先生でした。江田島の様子を授業中に聞いたおぼえがあります。戦後の教育界にはこうした人々が幾多もいました。井上成美氏の薫陶を受けた方達と思いたいところです。
井上成美氏は、終戦直後お嬢さん、お孫さんと貧困の生活を続けるわけであるが、お嬢さんを殆ど栄養失調で失い、自身は社会から外れた仙人のような生活で、身を隠す生活を続けました。死ぬ気でいたのでしょう。しかし自然と周囲の子供達が彼のもとに集まってきました。子供達に英語教育などを教え、人の道も教えるという波乱の人生を送って、昭和50年(1975) にはなくなられています。
軍事という専門教育を、管理栄養士などという専門教育に置き換えてみた場合など、我々にも多いに参考になる事が感じられ、ここに本著を紹介する次第です。
本著を北京出張の機中で読み始めました。井上成美氏は第2次世界大戦、戦中、戦後、最後の海軍大将とか、沈黙の提督とか言われた人で、その存在は西澤潤一会長の同窓会の講話に良く引き合いに出されてきました。
井上成美氏は中7回卒(明治40年、1907年)の方です。第2次世界大戦、日本が戦争へ突入する頃の海軍軍人で、米内光政、山本五十六両提督と力を合わせて戦争反対に動き、さらに戦中いち早く戦争終結に道をひらいた軍人として歴史上著名な方です。
宮野澄氏は、井上成美氏の事に関心を抱かれ、事細かく彼の生涯を本著にしたためられました。興味深い本でした。宮野澄氏がまず本の扉に書かれている事は、氏がなぜ井上成美氏に興味を抱かれたかという事でした。戦争直前の政治家、軍人達の不穏な動き、5.15、2.24事件、三国同盟の動きに対して、冷静に国際状況を研究し、国の安全を自らの命をかけて守ろうとした事、そしてそのベースにある大きな常識力、判断力に興味を抱かれたのでしょう。井上成美氏のとった行動の正確さは歴史的にも明らかです。
それはさておき、氏が井上成美氏に驚かされた事は、戦中にあって、敗戦が見え始める頃になって、海軍兵学校(江田島)校長として極めてまともな教育を行なった事でしょう。
井上成美氏は、この戦争が敗戦となることを基本とし、この数千名の若者達に人殺しの仕方を教えるのではなく、敗戦後彼らがどうやって生きのびて行けるのか、更には敗戦の日本国の立て直しまで考慮して、何と英語教育に力を入れたのです。
当時、兵学校の入試に英語を入れるべきかどうかと教員間で決を取ったといいます。当然ほとんどの教員は英語入試に反対であったが、これまで通り入試科目に英語を使うことをそのままとすると校長の断で存続させたのです。英語ばかりでなく、普通学を行なう事が第一主義であるとも述べています。普通学とは今で言う教養科目の事です。
本著の中で小生が強く感じたのは、井上成美氏の人間感です。家畜場のような兵学校の生活をみて、「国のためだなんていって、勇んで学校に入ってきて、戦争に負けて中途で放りださせてどうなるのか。勿論体は丈夫になっているし、躾けは十分してありますから、人作りは出来ているし、だけど頭の使う方は空っぽな人作りでは困る。だから普通学だ」と、「東大を出たような学士様なら、戦場で十分に使えると見たのです。いわゆるジェントルマンならば、デューテイ観念があって、レスポンスビリッテーを身に付けた人間ならばそのまま戦争に出しても使えるという結論を私は持っていた」と述べています。
戦争中の話を読んだり、聞いたりする場面が多くあったが、小生の興味は、その人殺し集団の中心にいる人間に果たしてインテリゲンスがあったかどうかにつきます。そして、自分の部下を、あるいは部隊を殺さずに、うまく生き抜いてきた部隊の中心の人間は、必ず教育のあるインテリであったような感慨を抱いています。死地にあって、ひとを殺さずに、部隊を生きのこらせた軍人には強いインテリゲンスを感じてきました。
仙台二中の精神もこの辺にあったのではないでしょうか。雑学を子供の頃にしっかり頭に入れて、その雑学と軍事学(人殺し学)との間の関連性を読み取らせる力を与える教育が当時の仙台二中にはあったのでしょう。若いヒトの将来を思って、反対者を押し切ってこうした思い切った教育を、しかも戦争終了間際の混乱期に行なっています。これも正しい判断であったと思います。
終戦後、幾多の兵学校卒生が日本の社会を立て直す軸になったことは確かです。大学教育を受けたとき、ある教育学の教授を思い出します。彼は兵学校出身で、戦後大学に入り直し、学者になられた先生でした。江田島の様子を授業中に聞いたおぼえがあります。戦後の教育界にはこうした人々が幾多もいました。井上成美氏の薫陶を受けた方達と思いたいところです。
井上成美氏は、終戦直後お嬢さん、お孫さんと貧困の生活を続けるわけであるが、お嬢さんを殆ど栄養失調で失い、自身は社会から外れた仙人のような生活で、身を隠す生活を続けました。死ぬ気でいたのでしょう。しかし自然と周囲の子供達が彼のもとに集まってきました。子供達に英語教育などを教え、人の道も教えるという波乱の人生を送って、昭和50年(1975) にはなくなられています。
軍事という専門教育を、管理栄養士などという専門教育に置き換えてみた場合など、我々にも多いに参考になる事が感じられ、ここに本著を紹介する次第です。
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