2012年9月19日 20:09 (
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第39回食品物性シンポジウム(酪農大)と第59回日本食品科学工学会(藤女子大)出席と北海道の印象について
8/27-31、酪農大学(江別市)で行なわれた第39回食品物性シンポジウムと、藤女子大学(札幌市)で行なわれた第59回日本食品科学工学会に出席しました。長期間でしたが、札幌市内に宿泊して両学会に参加しながら、途中釧路まで足をのばした印象を述べます。
酪農大学での食品物性シンポジウム(8/27-28)は演題も多く(13題)、内容も多岐にわたり充実した学会でした。連日36℃近辺の関西から、涼風吹く北海道への移動を予想した学会でしたが、どうしてどうして札幌も連日30℃以上の高温で、日本何処へ行っても暑いということでした。
酪農大学は広大な敷地をもつ立派な大学です。キャンパス内の建物は何れも最新のもので、学会はなかなか快適でした。タンパク質、澱粉、多糖類等の多くの食品材料の基本的研究が中心です。タンパク質では、アミロイド線維形成のモデル研究(北大 佐々木氏)が面白かったです。白内障、アルツハイマー症など引き起こす原因線維タンパク質生成解明の糸口です。澱粉加工研究では米澱粉生合成と関連させた東農大阿久澤氏の研究が面白かったです。例年本会ではヒトの嚥下の問題が紹介されてますが、今回も食物繊維と関連させた研究など興味深いものでした。この嚥下研究は管理栄養士にとっても重要な関心事です。
大会終了翌日(8/29)は早朝から釧路に足を伸ばしました。
JR札幌から釧路まで、快速列車おおぞら(ジーゼルカーで、電化されてない)で4時間かかりました。昔は10時間かかった行程です。車外は興味深い北海道の景色でした。全行程の半分の頃(約2時間後)、一度訪ねたことのある北海道農業試験場の地、芽室、さらに次駅、帯広まできました。帯広で多くの人が下車し、新たな乗客に入れ替わりました。
このあたりから快晴だった空模様が急に変りはじめ、曇ってきて遠景は見られなくなりました。十勝地方を挟んでその東(釧路側)、西(札幌側)は大きく天候が変るようです。冬には東は雪が多く、作物は育ち難いと聞きました。列車はそのうち海岸線に出ましたが、釧路までは霧が多く、近くの海岸線だけしか見えませんでした。
釧路駅に近くなると車内放送が流れ、列車の遅れ(20分あまり)のお詫びと、本列車をまつ釧路駅発の湿原ラロッコ列車の連絡でした。釧路湿原を観光する列車です。車掌にラロッコ列車の終点までの時間を聞き、この列車に乗る事にしました。ラロッコ車は満席でした。
列車はゆっくり釧路湿原へ入り込み、約10分ほどで釧路湿原駅に到着しました。客がぞろぞろ降り始め、小生も続きました。駅から降りて湿原の高台に出ました。そこから眼下に釧路川、広大な釧路湿原が見えます。遠くには雌阿寒岳、雄阿寒岳が見えます。かつて釧路川が氾濫し、広大な平地が水浸しになり、それがそのまま長期間のうちに湿原に変ったのです。これがかつて一世を風靡した原田康子の小説、挽歌の舞台になったところです。
1時間ほどして、列車で釧路に戻りました。駅を出るとレストランをさがして、幣舞橋の方へどんどん歩きましたが、どこにも人がいない。町は寂れているのでしょうか。幣舞橋をわたって、出世坂を登って山手にあがってゆきました。50-60年前、たしか緑色の日赤病院があったはずだが、そして小説、挽歌の舞台であったはずだが、昔の暗い、夏でも道路は泥泥だったイメージを思い出しました。今は明るく、道路も良く整備されていて大違いでした。
高台にあがって、この辺に小学校があって、中学校があって、自宅があってと思い出しながら歩きました。少し下って、何か違うなと思い、バス停にいた中年女性に聞きました。記憶にある東栄小学校は?弥生町は?と。するとづっと上ですよと言われ、まんざら学校名、地名が間違ってないとほっとしました。
小学校らしい建物が見えました。あれが東栄小学校かな?建替中のようでした。その小学校から若い先生のような人がでてきたので、ここは小学校ですか?と聞くと日進小学校という。東栄小学校ではない。自分の記憶違いだったのかな?しかしこの日進小学校の名前も覚えていました。こんな近くに2つも小学校があったのか。小生らは団塊世代で当時子供がたくさんいたのでしょう、納得しました。
東栄小学校は?と聞くとまだこの先にありますよと。弥生町という町名はありますか?と聞くと、ありますよと言われた。50年ほど前の卒業生ですというと笑っておられました。指示された方向に歩いてゆくと、すぐ近くに廃校となった東栄小学校がありました。グラウンドの一角に、90周年の記念碑がありました。懐かしい東栄小学校の校章もあったし、広い懐かしいグラウンドも見えました。
小学校から頼まれたのか、父親が当時勤務していた日本水産の工場から丈夫なホースを持ち込み、グラウンドに水を撒き、それが翌朝スケートリンクとなり、学校から感謝された事を思い出しました。ここで狩野先生、中川先生に御指導受けたのですが、先生方は?
グラウンドから公道に降りて、すぐ近くに自宅があったはずだ、地名は弥生町とあるからそんなに記憶違いはないはずだが、しかしさっぱりでした。
たしか自宅の庭から窪地をはさんで向こうの丘の上に中学校があったはずです。中学校らしい建物が近くに見えました。中学校は廃校になっていました。中学校の向うは絶壁だったはずです。やはり絶壁でした。イメージほどの絶壁ではなかったですが、海がすぐその下まできていました。その海岸と絶壁との間の隙間を隣港鉄道の線路がづっと遠くの昆布岬まで見えました。
高台をづっと下って米町公園へと向かいました。再び高台の米町公園まで上ってゆくと、懐かしい啄木碑がありました。丘の上にたつと、眼下に釧路港が見えます。かつて日本水産、大洋漁業、極洋捕鯨の工場のあった地域を見るが、そこには今は何もありません。当時、釧路は漁業会社が集中し、活気がありました。いまでは後退し、盛んだった釧路の魚港は人がいなくなり、寂れていったのでしょう。「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」石川啄木ーーーと言われたかつての釧路にもどるのでしょうか。
釧路駅への途中、古本屋が目に留まりました。店内で「挽歌物語」盛厚三著(釧路新書)を買いました。この本を千歳空港内で読みました。何とも言えず懐かしい本でした。
子供の頃、小説「挽歌」は大人の読む本というイメージでした。年のはなれた姉から釧路の人たち、日本中の人たちがこの本を読んで大変に騒いでいると聞いていました。子供なりに挽歌の小説、映画、その中の幣舞橋、著者原田康子の自宅、舞台の日赤病院など多くのことが釧路とむすびついていました。釧路の霧のイメージ、暗いイメージ、釧路湿原での死のイメージなど、頭のどこかに残っていたものがこの本を読んで次々と思い出されました。この本には小説「挽歌」に関する知らない事もいっぱい述べられていました。釧路を舞台に、左手の不自由な19歳の多感な女性、戦争帰りの技師桂木、その夫人らの繰り広げる小説でした。
"高台から見降ろすと下町には明かりがともっていた。しかし、町の明かりの果ては、広い真っ暗な湿原地に呑みこまれているのだった。釧路の創作風土は、湿原とガス(霧)につきる。当時、高台から釧路の街を見ると、市街地の明かりがぽつん、ぽつんとあって、その間に湿原の暗黒が広がっていた。砂漠に中の街のようで、本当に寂しかった。"と原田康子はのべていたようです。釧路のガリ版の「北海文学」から生まれたこの小説は70万部を越す大ベストセラーとなり、当時の人々の心をしっかりと受け止めた本でした。
食品科学工学会に戻りました。会場の藤女子大学はカトリック系の女子大で、なかなか立派な大学でした。セミナーハウスのルルドのマリア像、ベルナデッタ像、アシジの聖フランシスコ像など小生にとって、なつかしい像が飾られていました。我々の研究室から田原彩らの「炭化セルロースブレンド小麦粉を用いたパンについて」、瀬口らの「バナナを用いたGluten-freeパンの調製」を発表しました。聞いていただいた方々の印象はどうだったでしょうか。。食品科学工学会の人気は上々で、発表内容も高水準のものばかりと思われました。今回の出張は、2学会出席とその間に釧路旅行を挟んだものでした。小生にとっては有意義なものでした。
酪農大学での食品物性シンポジウム(8/27-28)は演題も多く(13題)、内容も多岐にわたり充実した学会でした。連日36℃近辺の関西から、涼風吹く北海道への移動を予想した学会でしたが、どうしてどうして札幌も連日30℃以上の高温で、日本何処へ行っても暑いということでした。
酪農大学は広大な敷地をもつ立派な大学です。キャンパス内の建物は何れも最新のもので、学会はなかなか快適でした。タンパク質、澱粉、多糖類等の多くの食品材料の基本的研究が中心です。タンパク質では、アミロイド線維形成のモデル研究(北大 佐々木氏)が面白かったです。白内障、アルツハイマー症など引き起こす原因線維タンパク質生成解明の糸口です。澱粉加工研究では米澱粉生合成と関連させた東農大阿久澤氏の研究が面白かったです。例年本会ではヒトの嚥下の問題が紹介されてますが、今回も食物繊維と関連させた研究など興味深いものでした。この嚥下研究は管理栄養士にとっても重要な関心事です。
大会終了翌日(8/29)は早朝から釧路に足を伸ばしました。
JR札幌から釧路まで、快速列車おおぞら(ジーゼルカーで、電化されてない)で4時間かかりました。昔は10時間かかった行程です。車外は興味深い北海道の景色でした。全行程の半分の頃(約2時間後)、一度訪ねたことのある北海道農業試験場の地、芽室、さらに次駅、帯広まできました。帯広で多くの人が下車し、新たな乗客に入れ替わりました。
このあたりから快晴だった空模様が急に変りはじめ、曇ってきて遠景は見られなくなりました。十勝地方を挟んでその東(釧路側)、西(札幌側)は大きく天候が変るようです。冬には東は雪が多く、作物は育ち難いと聞きました。列車はそのうち海岸線に出ましたが、釧路までは霧が多く、近くの海岸線だけしか見えませんでした。
釧路駅に近くなると車内放送が流れ、列車の遅れ(20分あまり)のお詫びと、本列車をまつ釧路駅発の湿原ラロッコ列車の連絡でした。釧路湿原を観光する列車です。車掌にラロッコ列車の終点までの時間を聞き、この列車に乗る事にしました。ラロッコ車は満席でした。
列車はゆっくり釧路湿原へ入り込み、約10分ほどで釧路湿原駅に到着しました。客がぞろぞろ降り始め、小生も続きました。駅から降りて湿原の高台に出ました。そこから眼下に釧路川、広大な釧路湿原が見えます。遠くには雌阿寒岳、雄阿寒岳が見えます。かつて釧路川が氾濫し、広大な平地が水浸しになり、それがそのまま長期間のうちに湿原に変ったのです。これがかつて一世を風靡した原田康子の小説、挽歌の舞台になったところです。
1時間ほどして、列車で釧路に戻りました。駅を出るとレストランをさがして、幣舞橋の方へどんどん歩きましたが、どこにも人がいない。町は寂れているのでしょうか。幣舞橋をわたって、出世坂を登って山手にあがってゆきました。50-60年前、たしか緑色の日赤病院があったはずだが、そして小説、挽歌の舞台であったはずだが、昔の暗い、夏でも道路は泥泥だったイメージを思い出しました。今は明るく、道路も良く整備されていて大違いでした。
高台にあがって、この辺に小学校があって、中学校があって、自宅があってと思い出しながら歩きました。少し下って、何か違うなと思い、バス停にいた中年女性に聞きました。記憶にある東栄小学校は?弥生町は?と。するとづっと上ですよと言われ、まんざら学校名、地名が間違ってないとほっとしました。
小学校らしい建物が見えました。あれが東栄小学校かな?建替中のようでした。その小学校から若い先生のような人がでてきたので、ここは小学校ですか?と聞くと日進小学校という。東栄小学校ではない。自分の記憶違いだったのかな?しかしこの日進小学校の名前も覚えていました。こんな近くに2つも小学校があったのか。小生らは団塊世代で当時子供がたくさんいたのでしょう、納得しました。
東栄小学校は?と聞くとまだこの先にありますよと。弥生町という町名はありますか?と聞くと、ありますよと言われた。50年ほど前の卒業生ですというと笑っておられました。指示された方向に歩いてゆくと、すぐ近くに廃校となった東栄小学校がありました。グラウンドの一角に、90周年の記念碑がありました。懐かしい東栄小学校の校章もあったし、広い懐かしいグラウンドも見えました。
小学校から頼まれたのか、父親が当時勤務していた日本水産の工場から丈夫なホースを持ち込み、グラウンドに水を撒き、それが翌朝スケートリンクとなり、学校から感謝された事を思い出しました。ここで狩野先生、中川先生に御指導受けたのですが、先生方は?
グラウンドから公道に降りて、すぐ近くに自宅があったはずだ、地名は弥生町とあるからそんなに記憶違いはないはずだが、しかしさっぱりでした。
たしか自宅の庭から窪地をはさんで向こうの丘の上に中学校があったはずです。中学校らしい建物が近くに見えました。中学校は廃校になっていました。中学校の向うは絶壁だったはずです。やはり絶壁でした。イメージほどの絶壁ではなかったですが、海がすぐその下まできていました。その海岸と絶壁との間の隙間を隣港鉄道の線路がづっと遠くの昆布岬まで見えました。
高台をづっと下って米町公園へと向かいました。再び高台の米町公園まで上ってゆくと、懐かしい啄木碑がありました。丘の上にたつと、眼下に釧路港が見えます。かつて日本水産、大洋漁業、極洋捕鯨の工場のあった地域を見るが、そこには今は何もありません。当時、釧路は漁業会社が集中し、活気がありました。いまでは後退し、盛んだった釧路の魚港は人がいなくなり、寂れていったのでしょう。「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」石川啄木ーーーと言われたかつての釧路にもどるのでしょうか。
釧路駅への途中、古本屋が目に留まりました。店内で「挽歌物語」盛厚三著(釧路新書)を買いました。この本を千歳空港内で読みました。何とも言えず懐かしい本でした。
子供の頃、小説「挽歌」は大人の読む本というイメージでした。年のはなれた姉から釧路の人たち、日本中の人たちがこの本を読んで大変に騒いでいると聞いていました。子供なりに挽歌の小説、映画、その中の幣舞橋、著者原田康子の自宅、舞台の日赤病院など多くのことが釧路とむすびついていました。釧路の霧のイメージ、暗いイメージ、釧路湿原での死のイメージなど、頭のどこかに残っていたものがこの本を読んで次々と思い出されました。この本には小説「挽歌」に関する知らない事もいっぱい述べられていました。釧路を舞台に、左手の不自由な19歳の多感な女性、戦争帰りの技師桂木、その夫人らの繰り広げる小説でした。
"高台から見降ろすと下町には明かりがともっていた。しかし、町の明かりの果ては、広い真っ暗な湿原地に呑みこまれているのだった。釧路の創作風土は、湿原とガス(霧)につきる。当時、高台から釧路の街を見ると、市街地の明かりがぽつん、ぽつんとあって、その間に湿原の暗黒が広がっていた。砂漠に中の街のようで、本当に寂しかった。"と原田康子はのべていたようです。釧路のガリ版の「北海文学」から生まれたこの小説は70万部を越す大ベストセラーとなり、当時の人々の心をしっかりと受け止めた本でした。
食品科学工学会に戻りました。会場の藤女子大学はカトリック系の女子大で、なかなか立派な大学でした。セミナーハウスのルルドのマリア像、ベルナデッタ像、アシジの聖フランシスコ像など小生にとって、なつかしい像が飾られていました。我々の研究室から田原彩らの「炭化セルロースブレンド小麦粉を用いたパンについて」、瀬口らの「バナナを用いたGluten-freeパンの調製」を発表しました。聞いていただいた方々の印象はどうだったでしょうか。。食品科学工学会の人気は上々で、発表内容も高水準のものばかりと思われました。今回の出張は、2学会出席とその間に釧路旅行を挟んだものでした。小生にとっては有意義なものでした。
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