2012年12月26日 15:05 (
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パンの歴史
はじめに
スイスのパン研究者Max Wahrenの著書 "Brot seit Jahrtausenden"「マックス バーレン著 パンの歴史」中のパンの写真は素晴らしく、機会あるごとにスライドにして学生に見せています。
同時に以下のような話をしております。すみません、今回はその話を。
元々、野生小麦の生えていたところは、ユーラシア大陸のど真ん中、中近東地域であったと言われています。今でも車でこの近辺を走ると、道路脇には背丈の低い、貧弱な野生の小麦が生えているといいます。小麦は何千年も昔、この近辺の人々によって栽培され、貴重な穀物として食されていただろうし、彼らはその小麦の持つ独特のおかしさ、つまりダンゴ状にしたり、延ばしたり、ちぢめたり、自由自在の形を変えられるということに気がついていたはずです。
そういうことで大切にされていた小麦が、人の集まる集落から次の集落へと次第に東へ、西へ、南へ、北へと伝わっていったのだと思われます。何百ー何千年の年月をかけて広がるうちに東の果ての中国まで来ると、小麦はメンの文化として開花し、西の方では古代エジプト、ギリシャ、ローマ等でパンの文化として開花してゆくのです。
遠く離れた東と西で、小麦は夫々メンとパンというように全く形の違う食品として開花したのは面白いことです。しかし何れも小麦の持つ独特のグルテンの性質を非常に巧みに利用し、片や極細の1本の糸として、片や薄膜のスポンジとして利用しているのです。
パンの歴史
パンの歴史は7000年もの長い歴史を持つといわれています。世界最古のパン焼き釜は古代バビロニアの首都バビロンで発見され、それは今から6000年前といいます。パンは白熱灰の中や、熱した扁平な石の上で焼いて食べていました。1991年、ジーモン夫妻によってアルプス山中で発見された5000年前のミイラから、小麦種の外果皮が見つかり、アルプス周辺では新石器時代に小麦があったと確認されました(『5000年前の男」文春文庫)。はじめは土器に中に水とともに加え、パンかゆ状にして食べていました。紀元前2500年ごろのパンづくりの情報がミヒュルスベルグ文化の遺跡から数々読み取られました。穀物は小さな石器の鎌で刈り取られ、壷に蓄えられ、女達はひき臼でそれを粉にし、平焼きパン(直径20cm)を土器や皿の上で焼きました。当時のパン用穀物は、小麦、大麦、アワ、エンバク、ライ麦でした。しかし、パンを膨化する醗酵の知識はまだありませんでした。ヒトの多く集まる地域、すなわち巨大文化圏が発生するとそこで人々の知恵と欲望から製パン技術は前進してきました。古代エジプト、ギリシャ、ローマの国々での発展がそれです。
1、古代エジプトのパン
ナイル川流域の肥沃な地域に栄えた古代エジプトで、このパンの文化は大きく進歩しました。古代エジプトでは、麦は神オシリスと女神イシスが与えてくれた賜物で、人々はそれに対し労働で答えねばなりませんでした。エジプト人は1日平均3−4個のパンとビールを食していました。パンは子供の誕生に関する風習から、死者の埋蔵の儀式などにいたるまで彼らの生活面の全てに役割を持つ大切なものでした。更にパンは古代エジプトの経済生活を支配し、この国の繁栄に貢献していたと言っても過言ではありませんでした。古代エジプトのパンの種類は極めて多種多様で、紀元前12-13世紀のパピルス文書によると、その数は円形、長円形、三角形、花の形、河馬の形、寝そべった牛の形等30種類にものぼっていました。これらのパン型は、正に美術工芸品のようで、その美しさは今日でも及ぶものなしというほどの精巧さです。
2、古代ギリシャのパン
その後繁栄した古代ギリシャにおいても、パンは重要な食べ物でした。古代エジプト同様にパンは神々の賜物と考えられていました。アテネ国立博物館に行くと、エレフシスで発見されたという大きな石のレリーフ像があります。それは紀元前440-430年のもので、左側に善良な女神デメテル、右側にペルセファニ、そして真ん中にはケレオス王の子トリュプトレモスが立っています。トリュプトレモスはペルセファニから王冠をいただくとともに、女神デメテルからは麦の種子を受け取っています。
古代ギリシャの主食はマザイという平焼きパンで、材料は大麦を使い、熱したレンガ上に捏ねた生地を乗せて焼くもので、何百年間もこの扁平な大麦パンを食べていました。当時の製パン用穀物は小麦、レンズ豆、キビ、エンバク、大麦等でした。上等なパンにはチーズ、牛乳、アニスの実、胡椒、けしの実、蜂蜜、クリームなどを添加したものもありました。
醗酵パンがエジプトからギリシャに入ってきたのは、紀元前8世紀ごろと言われています。醗酵パンに必要なイーストは当時ズーメイと呼ばれたましたが、ぶどう酒とキビを混ぜ、多量の醗酵液にしたもので、これは1年間保存できました。
パン種は小麦粉生地に白ブドー酒を混ぜた生地を3日間ねかせて作り、乾燥後、貯蔵しました。醗酵パンを作る時にそのパン種を小麦粉とまぜました。紀元前6世紀頃には、こうして作った醗酵パンを、アテネの高官、市民、外国高官だけが、特別な祝祭日の公の宴においてたべることができるという法律がありました。
更にギリシャ人は炭酸ソーダを用いた製パン法も知っていたといいます。
ギリシャは芸術とともに、製菓、製パン技術の開花期でした。当時の詩人デニアスは、「我々はあらゆる種類の粉を滋味豊かな食物にする術を知った」と述べています。雪のごとき白いパンもあったといいます。
ギリシャには製パン業を商いにする人々がいましたが、製粉、製パンの仕事は全て男の仕事でした。パン生地を捏ねるような重労働時には笛の音に合わせて働きました。当時のパンには、エリテス、キュボイ、エピダイトロン、セサミテス、メリペクタ、クレイオン、エントリュプトン、キュリバナス、グロムス、パタラ等があり、その形は円形、リング上、花輪状、ロール状等いろいろでした。何れも日常生活のパンであるとともに、神々の礼拝の儀式にも欠かせないものでした。その中のキュリバナスなどは血液を用いたパンで、極めて儀式的なパンでしだ。しかしセサミテスのように蜂蜜や胡麻を塗って食べたり、クレイオンのように肉を入れた美味しそうなパンもありました。狩猟の女神への献げ物のパンとしてはクリーム、蜂蜜、胡麻入りで雄鹿の形をしたパンなどもありました。
3、古代ローマのパン
古代ローマにおいても、パンは神々の高貴な賜物と考えられていました。日常生活とパンとの結びつきは大きく、例えば結婚式の契りはパンを持って行われていました。パンは大麦パンを用い、そのパンをちぎって食する行為が二人の新生活の門出の象徴でした。それに対して「釜からパンの前借り」(婚前に子を生みたる娘)という言葉も残っています。当時のパン職人はギリシャからの移民でした。製パン所の裏庭には回転式の重い挽き臼があり、そこでは奴隷が牛馬のように酷使されていました。ローマでのパンの消費量は莫大なものであり、よく組織されたパン製造業者の同業組合もできていました。パン職人は、引っ張りだこで、高級年俸をとっており、この時代は製パン業界の黄金時代でした。
製パン所はローマの町だけでも254カ所あり、紀元前123年からはローマ市民36万人にパン、及び穀類の無料配給が始まりました。当時のパンとして、パニスホルデアキウス(奴隷の主食用)、パニスブレベイウス、パステイリ(甘いパン)、パニスフルフリュウス、パニスカンタブルム、パニスルビドウス、パニスキバリウス(配給用パン)、パニスフェルメンタトウス(醗酵パン)、パニスフルクスス、パニスエリクスス、コロナイ(花冠ロール)、パニスカンデドウス(最上級の精白小麦パン)等がありました。こうして発展したローマの製パン法は、遠く西ヨーロッパ、イギリスにまで広まりました。
4、中性初期から後期のパン
4−5世紀には民族大移動があり、ローマ帝国は滅亡しました。同時にローマ帝国に起った製パン技術も消失しました。その後の製パン発祥地は不明であるが、はじめて製パン業者に言及している記録文書は、717-719年のアレマニア法典です。その中に、「見習い、又は職人一人をかかえもつ料理人、ないし製パン職人が殺害されるときは、その職を継ぐ者40ソルドを納むベし」と書かれています。
中性初期の多くのパンには十時が刻まれているのが特徴的です。その目的は、パンを割りやすくするということもありましたが、それはキリスト教の印でした。当時からの言い伝えで、「パンは神様のお顔だから決して落としては行けません。ひろいあげたら直ぐに口づけしてあげないとイエス様やマリア様がお嘆きになりますよ」と人々は語り継いでいます。中性初期の製パンの発展は僧院に負うところが大きかったのです。僧院のパンは品質も良く、その種類が多かったのです。
製パン職人の組合組織に動きが見られたのは、フン族がヨーロッパ各地を荒廃し尽くした後で、すなわちヨーロッパに要塞都市建設が始まってからと言われています。
◯ パンのことわざ
額に汗して己のパンを得べし(旧約聖書)
人はパンのみにて生きるにあらず(新約聖書)
スイスのパン研究者Max Wahrenの著書 "Brot seit Jahrtausenden"「マックス バーレン著 パンの歴史」中のパンの写真は素晴らしく、機会あるごとにスライドにして学生に見せています。
同時に以下のような話をしております。すみません、今回はその話を。
元々、野生小麦の生えていたところは、ユーラシア大陸のど真ん中、中近東地域であったと言われています。今でも車でこの近辺を走ると、道路脇には背丈の低い、貧弱な野生の小麦が生えているといいます。小麦は何千年も昔、この近辺の人々によって栽培され、貴重な穀物として食されていただろうし、彼らはその小麦の持つ独特のおかしさ、つまりダンゴ状にしたり、延ばしたり、ちぢめたり、自由自在の形を変えられるということに気がついていたはずです。
そういうことで大切にされていた小麦が、人の集まる集落から次の集落へと次第に東へ、西へ、南へ、北へと伝わっていったのだと思われます。何百ー何千年の年月をかけて広がるうちに東の果ての中国まで来ると、小麦はメンの文化として開花し、西の方では古代エジプト、ギリシャ、ローマ等でパンの文化として開花してゆくのです。
遠く離れた東と西で、小麦は夫々メンとパンというように全く形の違う食品として開花したのは面白いことです。しかし何れも小麦の持つ独特のグルテンの性質を非常に巧みに利用し、片や極細の1本の糸として、片や薄膜のスポンジとして利用しているのです。
パンの歴史
パンの歴史は7000年もの長い歴史を持つといわれています。世界最古のパン焼き釜は古代バビロニアの首都バビロンで発見され、それは今から6000年前といいます。パンは白熱灰の中や、熱した扁平な石の上で焼いて食べていました。1991年、ジーモン夫妻によってアルプス山中で発見された5000年前のミイラから、小麦種の外果皮が見つかり、アルプス周辺では新石器時代に小麦があったと確認されました(『5000年前の男」文春文庫)。はじめは土器に中に水とともに加え、パンかゆ状にして食べていました。紀元前2500年ごろのパンづくりの情報がミヒュルスベルグ文化の遺跡から数々読み取られました。穀物は小さな石器の鎌で刈り取られ、壷に蓄えられ、女達はひき臼でそれを粉にし、平焼きパン(直径20cm)を土器や皿の上で焼きました。当時のパン用穀物は、小麦、大麦、アワ、エンバク、ライ麦でした。しかし、パンを膨化する醗酵の知識はまだありませんでした。ヒトの多く集まる地域、すなわち巨大文化圏が発生するとそこで人々の知恵と欲望から製パン技術は前進してきました。古代エジプト、ギリシャ、ローマの国々での発展がそれです。
1、古代エジプトのパン
ナイル川流域の肥沃な地域に栄えた古代エジプトで、このパンの文化は大きく進歩しました。古代エジプトでは、麦は神オシリスと女神イシスが与えてくれた賜物で、人々はそれに対し労働で答えねばなりませんでした。エジプト人は1日平均3−4個のパンとビールを食していました。パンは子供の誕生に関する風習から、死者の埋蔵の儀式などにいたるまで彼らの生活面の全てに役割を持つ大切なものでした。更にパンは古代エジプトの経済生活を支配し、この国の繁栄に貢献していたと言っても過言ではありませんでした。古代エジプトのパンの種類は極めて多種多様で、紀元前12-13世紀のパピルス文書によると、その数は円形、長円形、三角形、花の形、河馬の形、寝そべった牛の形等30種類にものぼっていました。これらのパン型は、正に美術工芸品のようで、その美しさは今日でも及ぶものなしというほどの精巧さです。
2、古代ギリシャのパン
その後繁栄した古代ギリシャにおいても、パンは重要な食べ物でした。古代エジプト同様にパンは神々の賜物と考えられていました。アテネ国立博物館に行くと、エレフシスで発見されたという大きな石のレリーフ像があります。それは紀元前440-430年のもので、左側に善良な女神デメテル、右側にペルセファニ、そして真ん中にはケレオス王の子トリュプトレモスが立っています。トリュプトレモスはペルセファニから王冠をいただくとともに、女神デメテルからは麦の種子を受け取っています。
古代ギリシャの主食はマザイという平焼きパンで、材料は大麦を使い、熱したレンガ上に捏ねた生地を乗せて焼くもので、何百年間もこの扁平な大麦パンを食べていました。当時の製パン用穀物は小麦、レンズ豆、キビ、エンバク、大麦等でした。上等なパンにはチーズ、牛乳、アニスの実、胡椒、けしの実、蜂蜜、クリームなどを添加したものもありました。
醗酵パンがエジプトからギリシャに入ってきたのは、紀元前8世紀ごろと言われています。醗酵パンに必要なイーストは当時ズーメイと呼ばれたましたが、ぶどう酒とキビを混ぜ、多量の醗酵液にしたもので、これは1年間保存できました。
パン種は小麦粉生地に白ブドー酒を混ぜた生地を3日間ねかせて作り、乾燥後、貯蔵しました。醗酵パンを作る時にそのパン種を小麦粉とまぜました。紀元前6世紀頃には、こうして作った醗酵パンを、アテネの高官、市民、外国高官だけが、特別な祝祭日の公の宴においてたべることができるという法律がありました。
更にギリシャ人は炭酸ソーダを用いた製パン法も知っていたといいます。
ギリシャは芸術とともに、製菓、製パン技術の開花期でした。当時の詩人デニアスは、「我々はあらゆる種類の粉を滋味豊かな食物にする術を知った」と述べています。雪のごとき白いパンもあったといいます。
ギリシャには製パン業を商いにする人々がいましたが、製粉、製パンの仕事は全て男の仕事でした。パン生地を捏ねるような重労働時には笛の音に合わせて働きました。当時のパンには、エリテス、キュボイ、エピダイトロン、セサミテス、メリペクタ、クレイオン、エントリュプトン、キュリバナス、グロムス、パタラ等があり、その形は円形、リング上、花輪状、ロール状等いろいろでした。何れも日常生活のパンであるとともに、神々の礼拝の儀式にも欠かせないものでした。その中のキュリバナスなどは血液を用いたパンで、極めて儀式的なパンでしだ。しかしセサミテスのように蜂蜜や胡麻を塗って食べたり、クレイオンのように肉を入れた美味しそうなパンもありました。狩猟の女神への献げ物のパンとしてはクリーム、蜂蜜、胡麻入りで雄鹿の形をしたパンなどもありました。
3、古代ローマのパン
古代ローマにおいても、パンは神々の高貴な賜物と考えられていました。日常生活とパンとの結びつきは大きく、例えば結婚式の契りはパンを持って行われていました。パンは大麦パンを用い、そのパンをちぎって食する行為が二人の新生活の門出の象徴でした。それに対して「釜からパンの前借り」(婚前に子を生みたる娘)という言葉も残っています。当時のパン職人はギリシャからの移民でした。製パン所の裏庭には回転式の重い挽き臼があり、そこでは奴隷が牛馬のように酷使されていました。ローマでのパンの消費量は莫大なものであり、よく組織されたパン製造業者の同業組合もできていました。パン職人は、引っ張りだこで、高級年俸をとっており、この時代は製パン業界の黄金時代でした。
製パン所はローマの町だけでも254カ所あり、紀元前123年からはローマ市民36万人にパン、及び穀類の無料配給が始まりました。当時のパンとして、パニスホルデアキウス(奴隷の主食用)、パニスブレベイウス、パステイリ(甘いパン)、パニスフルフリュウス、パニスカンタブルム、パニスルビドウス、パニスキバリウス(配給用パン)、パニスフェルメンタトウス(醗酵パン)、パニスフルクスス、パニスエリクスス、コロナイ(花冠ロール)、パニスカンデドウス(最上級の精白小麦パン)等がありました。こうして発展したローマの製パン法は、遠く西ヨーロッパ、イギリスにまで広まりました。
4、中性初期から後期のパン
4−5世紀には民族大移動があり、ローマ帝国は滅亡しました。同時にローマ帝国に起った製パン技術も消失しました。その後の製パン発祥地は不明であるが、はじめて製パン業者に言及している記録文書は、717-719年のアレマニア法典です。その中に、「見習い、又は職人一人をかかえもつ料理人、ないし製パン職人が殺害されるときは、その職を継ぐ者40ソルドを納むベし」と書かれています。
中性初期の多くのパンには十時が刻まれているのが特徴的です。その目的は、パンを割りやすくするということもありましたが、それはキリスト教の印でした。当時からの言い伝えで、「パンは神様のお顔だから決して落としては行けません。ひろいあげたら直ぐに口づけしてあげないとイエス様やマリア様がお嘆きになりますよ」と人々は語り継いでいます。中性初期の製パンの発展は僧院に負うところが大きかったのです。僧院のパンは品質も良く、その種類が多かったのです。
製パン職人の組合組織に動きが見られたのは、フン族がヨーロッパ各地を荒廃し尽くした後で、すなわちヨーロッパに要塞都市建設が始まってからと言われています。
◯ パンのことわざ
額に汗して己のパンを得べし(旧約聖書)
人はパンのみにて生きるにあらず(新約聖書)
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