2013年6月20日 11:13 (
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祖父小金井良精の記 上、下 星新一著 の読後
星新一著「祖父小金井良精の記」を面白く読みました。星新一の大好きなおじいさんの話です。
安政5年(1858)が祖父良精、星新一の母の父の生まれた年です。
安政の大獄のころで、長い安泰に浸っていた幕藩体制が揺らぎ始めていたころです。良精が数え年11歳(満9歳)のとき、城内から非常の合図である鐘や太鼓が鳴り響きました。そして母親につれられて良精を入れて4人の子供は炎の中の長岡城から逃げました。会津へ逃げました。まづ会津藩は西軍と激戦を交えてくれたというので長岡藩の4人に対し好意的でした。
良精は会津藩で武家の若い娘の一団が、さやを外した長刀を手に走り去っていくところを見ています。皆美しく化粧し、着物をからげ、白いはちまきをして黒髪との対比が鮮やかでした。悲劇の舞台へ向かう人たちでした。武士の世界の女性の精神の美しさが感じられます。
長岡からにげた人々の悲しい話をききました。長岡から幼児をつれて若松まで逃げてきたある女は、泊まるところも無く、乳も出なくなり、泣き叫びながら、わが子を深い谷になげ捨てたという悲惨な話です。
さらに仙台の城へ逃げ込んだり、松島の海をみて珍しがったりしています。海は初めて見たのです。仙台の北の方の寺に収容され、年末までそこにいました。やっと西軍と和解が整い、帰国してみると、家は焼けていました。良精にとってこの東北を逃げ回った体験は深く心にやきつきました。
会津の悲劇は落城後、その敗戦だけで終わったのではありませんでした。むしろその後です。70万石の大藩が下北半島の3万石寒冷の地に移され、痩せ地で実収は7千石、冬は俵にくるまって寝る生活というこの世の地獄を味わいました。
戦争の悲劇はいつも繰り返されますね。
そのうち年号は明治となり、江戸も東京になりました。明治3年に良精(13才)は東京にでました。明治4年には文部省が新設され、大学ができました。
しかし薩長系で無いと出世できない世の中でした。それにしても文明開化がこうも激しいとは、人々は予想もしていなかったのです。
良精は大学南校を退学し第1大学区医学校「東大医科の前身」へ入学しました。はじめ良精も刀を腰に学校へでかけていったようで、外人教員たちはそのちょんまげをみて、頭の上のピストルだと驚いていたようです。数学、物理、化学など授業はすべてドイツ語でした。良精は解剖学と組織学(細胞学)を習得しました。
当時、学生たちの素養はすこぶる良いようでした。議論はドイツ語でやります。学生自身はよくドイツ語がわかるので通訳はいらないほどです。明治16年南校と東京医学校が合併し東大となりました。制服もでき、制帽も四角なものでした。
良精のドイツ留学の件が内定しました。主席で卒業という成績のおかげでした。
ベルリン、なんと言う美しい世界。誰しも思わずため息をつきたくなる世界でした。ベルリン大学へ入学し、ライヘルト教授につきました。さらにワルダイエル教授(ストラスブルグ大学)の下で解剖の実験学を学びました。ドイツの大学の医学関係者はみな日本人に関心しました。誰もドイツ語ができ、一応の医学的知識を持ち、頭も悪くなく、金銭的に困ることもなく、使命感に燃え、学問に熱心でした。これが当時の日本の留学生の姿でした。
しかし当時の日本の医学レベルは低く人々は、早く死んでゆくのです。
良精の家内の八千代(22才)は妊娠に伴う病気でなくなりました。現代医学なら容易に治療できたものだろうが、当時において手のつけ用がなかったのです。このぐらいの悲劇はその時代かなり多かったはずです。「たけくらべ」の樋口一葉も25歳で急死しました。
この著の中に、多くのヒトが簡単に死んでゆきます。医学の重要性が今になって感じられます。
次の家内の喜美子は森林太郎(森鴎外)の妹でした。森林太郎は良精より1年の後輩におりました。森林太郎の後を追ってドイツから女性がやってきました。森家はその処理を良精に依頼しました。その女性エリスは全く善人でした。むしろ少したりないくらいに思われていました。この女性は気がよく、軽く考えて日本へやってきたと考えられましたが、良精の説得でドイツへ帰国します。当時の人たちは皆、口が固かったようで真相はわかりません。森鴎外の"舞姫"の舞台です。
大学では、ひたすら学問の世界に尽くそうという良精の決意でした。日本人とは何かと考えたいという大きな問題に取り組む決意が秘められているのを察することができました。良精の発表する論文はほとんどすべてと言っていいほど骨による人類学の分野に焦点が合わされていました。
武士の家において、長子は厳然たる存在でした。家を継ぐものとそれ以外の道を選ばざるを得ないものとの差は大きく兄、権三郎の存在は良精には大きなものでした。文明開化の時代は、しかし誰しもがうまく行くとは限らんのでした。権三郎は幸運に巡り会いながら、何をやっても目が出ないひとでした。良精は東大教授に29歳で就任、権三郎は37歳です。権三郎は立腹、良精は暴行を受けて逃げ帰ることになるのでした。負傷は面打撲、傷とはれ、上義歯破損のひどさです。武士の時代の名残でしょう。
日清、日露戦争がおこり、203高地で良精は弟を失いました。
北里柴三郎、野口英世との巡り合わせもありました。
北里柴三郎はその頭脳と実行力と人間的魅力とで自己の信ずる人生を歩むことができたヒトでした。野口英世は、会津に生まれのヒトで、努力する精神と才能の芽と語学力だけのヒトのようでした。良精はフィラデルフィアのペンシルバニア大学にたちよって、大学を見物した帰途に、道で日本の青年に出会いました。その青年がヒデオだったのです。良精は人生のすべてをかけて蛇毒の研究に取りかかっていたヒデオに、心の中で好意を持っていたようです。昭和3年野口は死亡します。
この中には、山本五十六の話も出てきます。旧長岡藩士にとって山本家なるものは心のよりどころ、思い出の中心といったものでした。かつては朝敵とされた同藩の出身者が、いま国運を担ってアメリカを相手に戦争したのです。良精が戦果をあげる山本に拍手を送るのは無理もありません。このような時代感覚を初めて知りました。
良精の学者としての生き方は、"清貧に安んずる"でした。現実的には口で言うほど容易なことではありません。研究とは注目されることの少ない地味な仕事です。"しかし真理をめざし、思考と実験を反復する中には、金銭で得られない味がある。また、業績を発表し、海外の研究者から反響があるとこれほど楽しいことが無い"と述べています。
研究者の真の姿はこの様にしてつくられてきたのでしょう。
良精は、東京大空襲の1ヶ月前になくなっています。
安政5年(1858)が祖父良精、星新一の母の父の生まれた年です。
安政の大獄のころで、長い安泰に浸っていた幕藩体制が揺らぎ始めていたころです。良精が数え年11歳(満9歳)のとき、城内から非常の合図である鐘や太鼓が鳴り響きました。そして母親につれられて良精を入れて4人の子供は炎の中の長岡城から逃げました。会津へ逃げました。まづ会津藩は西軍と激戦を交えてくれたというので長岡藩の4人に対し好意的でした。
良精は会津藩で武家の若い娘の一団が、さやを外した長刀を手に走り去っていくところを見ています。皆美しく化粧し、着物をからげ、白いはちまきをして黒髪との対比が鮮やかでした。悲劇の舞台へ向かう人たちでした。武士の世界の女性の精神の美しさが感じられます。
長岡からにげた人々の悲しい話をききました。長岡から幼児をつれて若松まで逃げてきたある女は、泊まるところも無く、乳も出なくなり、泣き叫びながら、わが子を深い谷になげ捨てたという悲惨な話です。
さらに仙台の城へ逃げ込んだり、松島の海をみて珍しがったりしています。海は初めて見たのです。仙台の北の方の寺に収容され、年末までそこにいました。やっと西軍と和解が整い、帰国してみると、家は焼けていました。良精にとってこの東北を逃げ回った体験は深く心にやきつきました。
会津の悲劇は落城後、その敗戦だけで終わったのではありませんでした。むしろその後です。70万石の大藩が下北半島の3万石寒冷の地に移され、痩せ地で実収は7千石、冬は俵にくるまって寝る生活というこの世の地獄を味わいました。
戦争の悲劇はいつも繰り返されますね。
そのうち年号は明治となり、江戸も東京になりました。明治3年に良精(13才)は東京にでました。明治4年には文部省が新設され、大学ができました。
しかし薩長系で無いと出世できない世の中でした。それにしても文明開化がこうも激しいとは、人々は予想もしていなかったのです。
良精は大学南校を退学し第1大学区医学校「東大医科の前身」へ入学しました。はじめ良精も刀を腰に学校へでかけていったようで、外人教員たちはそのちょんまげをみて、頭の上のピストルだと驚いていたようです。数学、物理、化学など授業はすべてドイツ語でした。良精は解剖学と組織学(細胞学)を習得しました。
当時、学生たちの素養はすこぶる良いようでした。議論はドイツ語でやります。学生自身はよくドイツ語がわかるので通訳はいらないほどです。明治16年南校と東京医学校が合併し東大となりました。制服もでき、制帽も四角なものでした。
良精のドイツ留学の件が内定しました。主席で卒業という成績のおかげでした。
ベルリン、なんと言う美しい世界。誰しも思わずため息をつきたくなる世界でした。ベルリン大学へ入学し、ライヘルト教授につきました。さらにワルダイエル教授(ストラスブルグ大学)の下で解剖の実験学を学びました。ドイツの大学の医学関係者はみな日本人に関心しました。誰もドイツ語ができ、一応の医学的知識を持ち、頭も悪くなく、金銭的に困ることもなく、使命感に燃え、学問に熱心でした。これが当時の日本の留学生の姿でした。
しかし当時の日本の医学レベルは低く人々は、早く死んでゆくのです。
良精の家内の八千代(22才)は妊娠に伴う病気でなくなりました。現代医学なら容易に治療できたものだろうが、当時において手のつけ用がなかったのです。このぐらいの悲劇はその時代かなり多かったはずです。「たけくらべ」の樋口一葉も25歳で急死しました。
この著の中に、多くのヒトが簡単に死んでゆきます。医学の重要性が今になって感じられます。
次の家内の喜美子は森林太郎(森鴎外)の妹でした。森林太郎は良精より1年の後輩におりました。森林太郎の後を追ってドイツから女性がやってきました。森家はその処理を良精に依頼しました。その女性エリスは全く善人でした。むしろ少したりないくらいに思われていました。この女性は気がよく、軽く考えて日本へやってきたと考えられましたが、良精の説得でドイツへ帰国します。当時の人たちは皆、口が固かったようで真相はわかりません。森鴎外の"舞姫"の舞台です。
大学では、ひたすら学問の世界に尽くそうという良精の決意でした。日本人とは何かと考えたいという大きな問題に取り組む決意が秘められているのを察することができました。良精の発表する論文はほとんどすべてと言っていいほど骨による人類学の分野に焦点が合わされていました。
武士の家において、長子は厳然たる存在でした。家を継ぐものとそれ以外の道を選ばざるを得ないものとの差は大きく兄、権三郎の存在は良精には大きなものでした。文明開化の時代は、しかし誰しもがうまく行くとは限らんのでした。権三郎は幸運に巡り会いながら、何をやっても目が出ないひとでした。良精は東大教授に29歳で就任、権三郎は37歳です。権三郎は立腹、良精は暴行を受けて逃げ帰ることになるのでした。負傷は面打撲、傷とはれ、上義歯破損のひどさです。武士の時代の名残でしょう。
日清、日露戦争がおこり、203高地で良精は弟を失いました。
北里柴三郎、野口英世との巡り合わせもありました。
北里柴三郎はその頭脳と実行力と人間的魅力とで自己の信ずる人生を歩むことができたヒトでした。野口英世は、会津に生まれのヒトで、努力する精神と才能の芽と語学力だけのヒトのようでした。良精はフィラデルフィアのペンシルバニア大学にたちよって、大学を見物した帰途に、道で日本の青年に出会いました。その青年がヒデオだったのです。良精は人生のすべてをかけて蛇毒の研究に取りかかっていたヒデオに、心の中で好意を持っていたようです。昭和3年野口は死亡します。
この中には、山本五十六の話も出てきます。旧長岡藩士にとって山本家なるものは心のよりどころ、思い出の中心といったものでした。かつては朝敵とされた同藩の出身者が、いま国運を担ってアメリカを相手に戦争したのです。良精が戦果をあげる山本に拍手を送るのは無理もありません。このような時代感覚を初めて知りました。
良精の学者としての生き方は、"清貧に安んずる"でした。現実的には口で言うほど容易なことではありません。研究とは注目されることの少ない地味な仕事です。"しかし真理をめざし、思考と実験を反復する中には、金銭で得られない味がある。また、業績を発表し、海外の研究者から反響があるとこれほど楽しいことが無い"と述べています。
研究者の真の姿はこの様にしてつくられてきたのでしょう。
良精は、東京大空襲の1ヶ月前になくなっています。
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