2013年7月30日 16:02 (
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「明治、父、アメリカ」著 星新一を読んで
星新一の本「明治、父、アメリカ」を以下の文面を拾いながら読みました。
私(星新一)の父は私が大学をでて、4年目ぐらいに死亡しました。
私が小学校3年生ぐらいのときだろうか、父は古本屋から「大学」という本を買ってきた。この本は論語、孟子、中庸とともに4書とよばれる本である。父は私をきちんとすわらせ、それを開き、火箸で一字ずつ押さえて読み、後に続けて読めと命じた。読めないと火箸でひっぱたくという。しかしそれは一回きりだった。1回きりにもかかわらず、私には印象的なことだった。昔の人はこうして字を習ったのだなと、具体的に知らされたのである。少年時代の回想するたびに懐かしく楽しい。
私(瀬口)も印象深い苦々しい思い出がありました。小学校の頃、突然父(明治生まれ)から机にすわらされ、a、b、c、----を教えられました。
数週間後に再び同じようにすわらされ、a、b、c、---を言わされました。はじめのa、b、c、ぐらいしか言えませんでした。お前は頭が悪いとさんざんしかられたことが思い出されました。そのことが未だに苦々しく思い出されます。この本を読んで、こういうやり方は星新一の父親のやり方といっしょだと思い出されました。昔のやり方は尋常ではありませんね。
父(星一)へのしつけと教育に関して喜三太(祖父)は厳しかった。文字を教えて、次にそれを読ませて、つっかえると火箸でひっぱたく。いうことを聞かぬと捕まえて腹にお灸である。祖母が父を大事にしすぎるのでそれを補うために厳格さを教える必要を感じていたのかもしれない。少年が手製の弓で矢を放った。それが飛んできて佐吉(父の子供の頃の名)にあたった。右の目に突き刺さった。心配した祖父は遠くの大きな町まで佐吉を連れて行った。やがてその目は失明してしまった。息子というものはそばにいると厳しくしつけをしたくなるが、遠くに勉強に出すと逆に心配の種になる。この時期佐吉は父の愛情を感じていたに違いがない。父親とは地味な存在である。裏方としての立場に満足しなければならない。いやそれで満足である。心の底でつながっている。何事も息子のために尽くす。厳しくしつけもするが、必要となるとできうる限りの力も貸すのである。
東京へ出た佐吉は家からの送りが十分でなかったのでほとんど苦学生といっていいほどの学生生活を送った。
そのころ佐吉は「西国立志編」(Self-Help) イギリス人サミュエルスマイルズを読む。この本は日本の多くの若者の心をとらえた。星佐吉もその一人というわけである。アメリカへ行きたくなる。西洋の様子と接したくなる。明治27年、明治28年の統計によると当時の日本人は、サンフランシスコに多かったが、7千人近くの日本人がいた。その多くの出稼ぎ労働者は英語を知らず、何の予備知識も無く、所持金も無い、大抵は農業関係の日雇い労働者となり、その日暮らしの食うや食わずの生活を続けることになるのである。アメリカに向かう船はその乗客たちの人生と運命を否応無しに大きく変えたのであった。
「お前のお母さんはきっと非常に立派な人なんでしょうね。ここの家でもこれまでに何人かの日本人を使ってみました。しかしどの人も同僚の悪口を言ったり、不平不満を口にしたりする。それなのに星は一度もそんなことは言わず、よく働いてくれている。お前のお母さんは、お前のような純真な子供を生み、忍耐づよく健康な青年に育てた。これは容易なことではありません。だから会わなくてもわかるのです。」と仕事先のアペンジャー夫人に言われた。「私の母ですからもちろん母を尊敬しております。しかし奥さんのようにおほめをいただくとは思ってもいませんでした。それを聞いたら母がどんなに喜ぶでしょう。」
世の中に多くの女性がいるが、おそらく私の母ほど親切な人はいなかったろうと思う。その上、人一倍の働きものだった。私の今日あるのは父から受けた教訓はそうでもないが、母の感化によるところがはるかに多いと思っている。女であるため学問をする機会に恵まれず、文字は読めなかったが頭は良かった。
星一のアメリカでの様子が伺われました。
フィラデルフィアの日本人の会合で、星は一人の青年と知り合った。野口英世という男で年齢は星より3つ下だ。野口は星を大学につれてゆき、顕微鏡を見せた。大抵の人は左目をつむって右目で覗き込む、専門家は両目をあけたままで左目でのぞき、それを右の目で紙にスケッチする。星のやり方を見て野口はいつおぼえたのかときいた。実は子供のころ右目に矢があたり、左目しか見えないのだ。それを聞いて野口は驚いてわびた。野口は金銭については計画性がかけていたが、それだけになりふり構わず研究に熱中した。一日一日の戦いの気分であった。
当時のアメリカには野口英世のような人もいました。
アメリカで学んだことの活用は販売法と行った表面的なものだけでなく、根本的な点であった。金持ちには金を出させ、従業員には仕事を与え、販売店には商品をまわし、消費者にはそれで生活を高めさせる。そしていずれの関係者にも利益の配当にあづからせる。この組織をつくりあげ、運営することこそ本当の意味の事業なのだ。これについての理解を人々に広めることができれば、わが国もアメリカのごとく活気ある能率的な国になってゆくのではないだろうか。
ーーーーと拾い読みしました。
サミエルスマイルズ「西国立志編」の本は当時の日本のベストセラーであったといいます。若い人に新しい一つの道を示しました。若い人をアメリカへ、ヨーロッパへと押し出しました。その中に星一がいました。
大変な努力をしてアメリカ人の思想を体得して帰国し、この「明治、父、アメリカ」に続く次の本「人民は弱し、官吏は強し」に入ってゆきます。この中では日本の役人(官吏)と星一のもつアメリカの合理性が激しくぶつかって、星一はつぶされてゆく様子が描かれています。立志伝中の人物、星一は、アメリカで学んだ考え方で事業を起こし、日本の官吏の社会の中でつぶされてゆきました。こうして日本にはアメリカ社会とは異なる日本独自の高圧的社会(官吏が指導する社会)が綿々と続いているというような感想を抱きました。
私(星新一)の父は私が大学をでて、4年目ぐらいに死亡しました。
私が小学校3年生ぐらいのときだろうか、父は古本屋から「大学」という本を買ってきた。この本は論語、孟子、中庸とともに4書とよばれる本である。父は私をきちんとすわらせ、それを開き、火箸で一字ずつ押さえて読み、後に続けて読めと命じた。読めないと火箸でひっぱたくという。しかしそれは一回きりだった。1回きりにもかかわらず、私には印象的なことだった。昔の人はこうして字を習ったのだなと、具体的に知らされたのである。少年時代の回想するたびに懐かしく楽しい。
私(瀬口)も印象深い苦々しい思い出がありました。小学校の頃、突然父(明治生まれ)から机にすわらされ、a、b、c、----を教えられました。
数週間後に再び同じようにすわらされ、a、b、c、---を言わされました。はじめのa、b、c、ぐらいしか言えませんでした。お前は頭が悪いとさんざんしかられたことが思い出されました。そのことが未だに苦々しく思い出されます。この本を読んで、こういうやり方は星新一の父親のやり方といっしょだと思い出されました。昔のやり方は尋常ではありませんね。
父(星一)へのしつけと教育に関して喜三太(祖父)は厳しかった。文字を教えて、次にそれを読ませて、つっかえると火箸でひっぱたく。いうことを聞かぬと捕まえて腹にお灸である。祖母が父を大事にしすぎるのでそれを補うために厳格さを教える必要を感じていたのかもしれない。少年が手製の弓で矢を放った。それが飛んできて佐吉(父の子供の頃の名)にあたった。右の目に突き刺さった。心配した祖父は遠くの大きな町まで佐吉を連れて行った。やがてその目は失明してしまった。息子というものはそばにいると厳しくしつけをしたくなるが、遠くに勉強に出すと逆に心配の種になる。この時期佐吉は父の愛情を感じていたに違いがない。父親とは地味な存在である。裏方としての立場に満足しなければならない。いやそれで満足である。心の底でつながっている。何事も息子のために尽くす。厳しくしつけもするが、必要となるとできうる限りの力も貸すのである。
東京へ出た佐吉は家からの送りが十分でなかったのでほとんど苦学生といっていいほどの学生生活を送った。
そのころ佐吉は「西国立志編」(Self-Help) イギリス人サミュエルスマイルズを読む。この本は日本の多くの若者の心をとらえた。星佐吉もその一人というわけである。アメリカへ行きたくなる。西洋の様子と接したくなる。明治27年、明治28年の統計によると当時の日本人は、サンフランシスコに多かったが、7千人近くの日本人がいた。その多くの出稼ぎ労働者は英語を知らず、何の予備知識も無く、所持金も無い、大抵は農業関係の日雇い労働者となり、その日暮らしの食うや食わずの生活を続けることになるのである。アメリカに向かう船はその乗客たちの人生と運命を否応無しに大きく変えたのであった。
「お前のお母さんはきっと非常に立派な人なんでしょうね。ここの家でもこれまでに何人かの日本人を使ってみました。しかしどの人も同僚の悪口を言ったり、不平不満を口にしたりする。それなのに星は一度もそんなことは言わず、よく働いてくれている。お前のお母さんは、お前のような純真な子供を生み、忍耐づよく健康な青年に育てた。これは容易なことではありません。だから会わなくてもわかるのです。」と仕事先のアペンジャー夫人に言われた。「私の母ですからもちろん母を尊敬しております。しかし奥さんのようにおほめをいただくとは思ってもいませんでした。それを聞いたら母がどんなに喜ぶでしょう。」
世の中に多くの女性がいるが、おそらく私の母ほど親切な人はいなかったろうと思う。その上、人一倍の働きものだった。私の今日あるのは父から受けた教訓はそうでもないが、母の感化によるところがはるかに多いと思っている。女であるため学問をする機会に恵まれず、文字は読めなかったが頭は良かった。
星一のアメリカでの様子が伺われました。
フィラデルフィアの日本人の会合で、星は一人の青年と知り合った。野口英世という男で年齢は星より3つ下だ。野口は星を大学につれてゆき、顕微鏡を見せた。大抵の人は左目をつむって右目で覗き込む、専門家は両目をあけたままで左目でのぞき、それを右の目で紙にスケッチする。星のやり方を見て野口はいつおぼえたのかときいた。実は子供のころ右目に矢があたり、左目しか見えないのだ。それを聞いて野口は驚いてわびた。野口は金銭については計画性がかけていたが、それだけになりふり構わず研究に熱中した。一日一日の戦いの気分であった。
当時のアメリカには野口英世のような人もいました。
アメリカで学んだことの活用は販売法と行った表面的なものだけでなく、根本的な点であった。金持ちには金を出させ、従業員には仕事を与え、販売店には商品をまわし、消費者にはそれで生活を高めさせる。そしていずれの関係者にも利益の配当にあづからせる。この組織をつくりあげ、運営することこそ本当の意味の事業なのだ。これについての理解を人々に広めることができれば、わが国もアメリカのごとく活気ある能率的な国になってゆくのではないだろうか。
ーーーーと拾い読みしました。
サミエルスマイルズ「西国立志編」の本は当時の日本のベストセラーであったといいます。若い人に新しい一つの道を示しました。若い人をアメリカへ、ヨーロッパへと押し出しました。その中に星一がいました。
大変な努力をしてアメリカ人の思想を体得して帰国し、この「明治、父、アメリカ」に続く次の本「人民は弱し、官吏は強し」に入ってゆきます。この中では日本の役人(官吏)と星一のもつアメリカの合理性が激しくぶつかって、星一はつぶされてゆく様子が描かれています。立志伝中の人物、星一は、アメリカで学んだ考え方で事業を起こし、日本の官吏の社会の中でつぶされてゆきました。こうして日本にはアメリカ社会とは異なる日本独自の高圧的社会(官吏が指導する社会)が綿々と続いているというような感想を抱きました。
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