2013年11月11日 14:16 (
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奈良もちいど通り散策
日本の菓子の歴史は古く、遣隋使、遣唐使の時代です。それまでは日本独自の菓子(青ざし)はあったでしょうが、記録に残る菓子はこのあたりでしょう。
日本に仏教が伝わったのは607年(遣隋使)ごろで、当時の日本の若者たちは、現在ならアメリカでしょうが、憧れていたのはそのころの文化の中心であった中国(隋や唐)への留学でしょう。
日本のインテリ連中は中国へわたり、留学の経験をして、あるいは何らかの資格を得て日本へ帰国し、仏教を広げる役割をしたものと思われます。日本への仏教の伝来です。彼らは日本に仏教を伝えるとともにそれに伴う種々の文化をも伝えました。
仏教のお経には精神的なこと以外にもいろいろな生活面のことが述べられています。仏教はインドのお釈迦さまが開かれたものです。仏様へのお供えものですが、それはインドのような年中温暖なところであればことかくことはありません。
仏 様と一体となるためには、同じものを食べて同じものを飲んでということでしょう。従って仏さまへのお供え物は、大切な儀式でもあり、これを欠いては死んで も仏さまと一体にはなれません。つまり死んだら仏さまの世界へは行けないというわけで、これは本質的な問題です。お供えものは大切なものでした。
仏 教がインドから三蔵法師によって中国へ伝えられると、中国では大きな問題となったでしょう。なぜなら中国は国が広く、北は満州、チベット等であり、季節に よっては何もない時期が長いです。何も食べるものがないからといって仏様へのお供え物をそなえなくてもよいわけにはいきません。なぜなら自分は仏様になる ことができないからです。不死の世界へ旅立ちできないからです。
そこで考えだされてきたのが、日本に伝わった八種の唐菓子、14種の果餅です。これらはいずれも動物やら、植物やらの形をしたイミテーションの菓子です。
日本でもローマ字ビスケットがあって、ローマ字を学びながら子供はこれを食べます。小麦粉でいろいろなかたちに作られています。さらに色も塗られています。
こ んなものを作って何も無い時期には仏様へのお供え物としてきました。このお供え物の作り方も仏教の教典に書いてあります。その中の一つに清浄歓喜団という 菓子があります。この菓子の作り方は難しく、形は巾着のような形をしていて、穀物の粉を水でねって巾着の形を作り、その中にあんを入れ、これを油であげる というものです。
油であげるときに慎重に取りかからないと巾着の袋はすべて破裂してしまい、お供え物になりません。
これを作るのには技術が必要です。仏教の教えには厳しい点があり、上から下への教育は徒弟制度のようなルールがあると思われます。
例えば口伝です。簡単なことはそのままその教典の通リにやればできる様になっています。しかし微妙なところは、普通の人にはわからないように隠してあるのである。そこのところは口伝です。上のものから下のものへ口伝で伝えるのです。
技術は簡単には広がらないようになっていました。
こ うして伝えられた食べ物は、いまでいうと小麦粉ドウに塩を入れてのばし、細く引き延ばすなどという技術、さらに油であげて固くして、乾いてもこわれない、 割れない、さらには腐敗しなくするというものです。こうして八種の菓子、14種の果餅は日本に伝わりました。その調理技術は遅れていた日本調理技術の中に 深く入り込み、現在の日本食に至るのです。
これらの菓子のことは、鎌倉時代、後醍醐天皇の頃には忘れられてました。 1334-1336年「建武年中行事」には、「その名はあれど、その姿いずれともわきがたし」と述べられています。江戸時代の平和な時代になって調べら れ、菓子絵が藤原貞幹の本「集古図」(1789)に残っています。
日本には日本の神様がいて、そのお供え物としてこの仏教伝来の お供えものを横取りして使ってます。こうして日本の神饌菓子は現在の奈良の春日大社の祭事にも京都、下鴨神社、上賀茂神社、八坂神社、さらに伊勢神宮の祭 事などにも残っており、料理を司る権禰宜が祭事につくります。これらはなかなか一般人には見られないものですが、現在では祭事が終わると一般に公開されて います。
奈良、京都のような昔からある町では、商魂逞しくこれらをイミテーションして菓子として製造販売されています。京都八坂神社近くの亀屋清永の清浄歓喜団、奈良もちいど通り、萬々堂通則のぶとまんじゅう、竹村の火打焼きなども有名です。
奈良にはこれ以外にも漢国神社内の林神社には田道間守や、林 浄因を祭ったまんじゅう塚などもあります。
日本に仏教が伝わったのは607年(遣隋使)ごろで、当時の日本の若者たちは、現在ならアメリカでしょうが、憧れていたのはそのころの文化の中心であった中国(隋や唐)への留学でしょう。
日本のインテリ連中は中国へわたり、留学の経験をして、あるいは何らかの資格を得て日本へ帰国し、仏教を広げる役割をしたものと思われます。日本への仏教の伝来です。彼らは日本に仏教を伝えるとともにそれに伴う種々の文化をも伝えました。
仏教のお経には精神的なこと以外にもいろいろな生活面のことが述べられています。仏教はインドのお釈迦さまが開かれたものです。仏様へのお供えものですが、それはインドのような年中温暖なところであればことかくことはありません。
仏 様と一体となるためには、同じものを食べて同じものを飲んでということでしょう。従って仏さまへのお供え物は、大切な儀式でもあり、これを欠いては死んで も仏さまと一体にはなれません。つまり死んだら仏さまの世界へは行けないというわけで、これは本質的な問題です。お供えものは大切なものでした。
仏 教がインドから三蔵法師によって中国へ伝えられると、中国では大きな問題となったでしょう。なぜなら中国は国が広く、北は満州、チベット等であり、季節に よっては何もない時期が長いです。何も食べるものがないからといって仏様へのお供え物をそなえなくてもよいわけにはいきません。なぜなら自分は仏様になる ことができないからです。不死の世界へ旅立ちできないからです。
そこで考えだされてきたのが、日本に伝わった八種の唐菓子、14種の果餅です。これらはいずれも動物やら、植物やらの形をしたイミテーションの菓子です。
日本でもローマ字ビスケットがあって、ローマ字を学びながら子供はこれを食べます。小麦粉でいろいろなかたちに作られています。さらに色も塗られています。
こ んなものを作って何も無い時期には仏様へのお供え物としてきました。このお供え物の作り方も仏教の教典に書いてあります。その中の一つに清浄歓喜団という 菓子があります。この菓子の作り方は難しく、形は巾着のような形をしていて、穀物の粉を水でねって巾着の形を作り、その中にあんを入れ、これを油であげる というものです。
油であげるときに慎重に取りかからないと巾着の袋はすべて破裂してしまい、お供え物になりません。
これを作るのには技術が必要です。仏教の教えには厳しい点があり、上から下への教育は徒弟制度のようなルールがあると思われます。
例えば口伝です。簡単なことはそのままその教典の通リにやればできる様になっています。しかし微妙なところは、普通の人にはわからないように隠してあるのである。そこのところは口伝です。上のものから下のものへ口伝で伝えるのです。
技術は簡単には広がらないようになっていました。
こ うして伝えられた食べ物は、いまでいうと小麦粉ドウに塩を入れてのばし、細く引き延ばすなどという技術、さらに油であげて固くして、乾いてもこわれない、 割れない、さらには腐敗しなくするというものです。こうして八種の菓子、14種の果餅は日本に伝わりました。その調理技術は遅れていた日本調理技術の中に 深く入り込み、現在の日本食に至るのです。
これらの菓子のことは、鎌倉時代、後醍醐天皇の頃には忘れられてました。 1334-1336年「建武年中行事」には、「その名はあれど、その姿いずれともわきがたし」と述べられています。江戸時代の平和な時代になって調べら れ、菓子絵が藤原貞幹の本「集古図」(1789)に残っています。
日本には日本の神様がいて、そのお供え物としてこの仏教伝来の お供えものを横取りして使ってます。こうして日本の神饌菓子は現在の奈良の春日大社の祭事にも京都、下鴨神社、上賀茂神社、八坂神社、さらに伊勢神宮の祭 事などにも残っており、料理を司る権禰宜が祭事につくります。これらはなかなか一般人には見られないものですが、現在では祭事が終わると一般に公開されて います。
奈良、京都のような昔からある町では、商魂逞しくこれらをイミテーションして菓子として製造販売されています。京都八坂神社近くの亀屋清永の清浄歓喜団、奈良もちいど通り、萬々堂通則のぶとまんじゅう、竹村の火打焼きなども有名です。
奈良にはこれ以外にも漢国神社内の林神社には田道間守や、林 浄因を祭ったまんじゅう塚などもあります。
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