アレグラ・グッドマン著「ねじれた直感」(集英社文庫)を読んで
この本 (原題;"INTUITION") は、極めて本質的で心理的な本です。
研究というものの本質を探す仕事、それに対する研究者の心理です。そのためには大きな訓練時間が必要で、この教育が必要です。
若いポスドクは一刻も早く業績を上げて、次のポストに。さらに自己変革を望む人にとって、研究成果は早く早くです。しかしそう簡単に思うようには進みません。
単に研究時間さえ、と研究量を増やして成果は上がるだろうか。上がりません。労働時間の問題では無いのです。研究テーマのこともありますが、得られた研究結果の読み、とその次の仕事をどうするかです。
ここボストン、ある研究所ではヌードラットを用いて癌研究を進めています。乳がんをマウスに起こさせ、そこにある種のウイルスを接種してそのがん回復を調べる研究です。主人公クリフは、ウイルスの効果を認めました。70-80%のラットがウイルスで回復したといいます。画期的なデーターで研究所はわきます。 さらに"Nature"に投稿し、アクセプトされました。
クリフの恋人ロビンは、見慣れないクリフの行動に不信を抱きます。クリフは自分の行動に何らその異常性に気がつきません。激しい自分の仕事に心酔してしまっています。
しかし、二箇所の他研究機関でトレースしたがうまくゆきません。再現性がないのです。
クリフは、"僕は一生懸命やった。"と言います。 しかし、どうも自分に都合の悪いデーターを捨てて、都合の良いデーターのみを集めたようです。
研究とは、結果的には他の研究者の、誰も見ていないところで進める個人プレーなのです。本人の常識、良識に任せられます。やっていいこととやって悪いことの判断です。これがきちんとできていないと過ちを犯します。
研究所の二人のアドバイザーのうち、一人は冷徹な目で彼の諸行、データーを見るが、もう一人はそれをポジテブにふくらませてのみみます。NIHの研究費目的です。このポスドクを頭から信じるだけです。
本人のデーターに対する甘さは本人の問題です。研究者として一人前になるまでの間は数年間、指導者の厳しいブラシュアップ、子供扱いに耐えねばなりません。そこで研究上の常識が身につきます。
過激な研究条件では、しっかりしていないと精神的に判断が狂います。自分のとったデーターが自分勝手な解釈になりいりがちです。
小生の研究上のアドバイーだったHさんのことを思い出します。
彼は、実験ではまず押せ押せでデーターを出します。多少後ろ向きのデーターでも何はともあれ押せ押せでデーターを出します。強引にポジテブなデーターにします。条件を変えて、さらに上に上へと良い方向へデーターを出します。
少しでもネガテブなデーターがあっても、これを押して前向きでそのポジテブなデーターのみを徹底的に押しあげます。さらにポジテブなデーターにふくらませてはっきりとしたものにします。これほどのポジテブなデーターはないほどのものを作ります。
実験が終わり、いざ、論文化する場合、今度は人が変わったようにこれを逆にネガチブの眼で見てゆきます。
第3者的な冷徹な眼でそのデーターを小突きまします。このデーターが本当かドウかです。ネガテブなデーターに転落することがあります。その時は直ちにその研究中止、その研究結果の放棄です。
ああでもない、こうでもないといろいろと見方を変えてデーターをつつく。
それでもなおポジテブなデーターは揺り動かない。そこで初めて投稿するデーター対象と考えます。
ポジテブなデーターの人と、これを引きずり下ろしつまらぬデーターとする人が同一人物です。二重人格者となるわけです。命がけの自分でとったかわいいデーターです。これを容赦なく切り捨てるのです。
一人よがりにならず、悪いものは悪いと切り捨てるのです。彼から教えられました。
メインページ