何千年も続くパン
はじめに
スイスのパン研究者 Max Wahrenの著書 "Brot seit Jahrtausenden" 中のパンの写真は素晴らしい。
11/5/023放映、読売テレビ番組・鉄腕DASHから大麦パン、マザイの取材を受け,この本を使って協力したことから古いパンのことが気になりここにまとめました。
元々、野生小麦の生えていたところは、ユーラシア大陸のど真ん中、中近東地域であったと言われています。今でも車でこの近辺を走ると、道路脇には背丈の低い、貧弱な野生の小麦が生えているといいます。小麦は何千年も昔、この近辺の人々によって栽培され、貴重な穀物として食されていただろうし、彼らはその小麦の持つ独特のおかしさ、つまりダンゴ状にしたり、延ばしたり、ちぢめたり、自由自在の形を変えられるということに気がついていたはずです。そういうことで大切にされていた小麦が、人の集まる集落から次の集落へと次第に東へ、西へ、南へ、北へと伝わっていったのだと思われます。何千年の年月をかけて広がるうちに東の果ての中国まで来ると、小麦はメンの文化として開花し、西の方では古代エジプト、ギリシャ、ローマ等でパンの文化として開花してゆくのです。遠く離れた東と西で、小麦は夫々メンとパンというように全く形の違う食品として開花したのは面白いことです。しかし何れも小麦の持つ独特のグルテンの性質を非常に巧みに利用し、片や極細の1本の糸として、片や薄膜のスポンジとして利用しているのです。
1、有史前中央ヨーロッパにおけるパン
中央ヨーロッパで人間が穀物栽培を知ったのは新石器時代(3000---1800 BC)と言われています。1991年、ジーモン夫妻によってアルプス山中で発見された5000年前のミイラから、小麦種の外果皮が見つかり、アルプス周辺では新石器時代に小麦があったと確認されました(『5000年前の男』文春文庫)。はじめは土器に中に水とともに加え、パンがゆ状にして食べていました。このパンがゆの時代(新石器時代初期4000-3000BC)からレッセン文化----ミヒュルスベルク文化(BC 2500)(中部ヨーロッパ後期新石器時代)の時代に至ると、パン作りの数々の情報が遺跡から読み取れます。穀物は小さな石器のくさび形の鎌で刈り取られ、壷に蓄えられ、女達はひき臼でそれを粉にし、土器や皿の上で平焼きパン(直径20cm)を焼きました。
パンの歴史は7000年もの長い歴史を持つといわれています。世界最古のパン焼き釜(BC4000)は古代バビロニアの首都バビロンで発見されました。パンは白熱灰の中や、熱した扁平な石の上で焼いて食べていました。3000-2000BCごろはパンは特別な食物として用いられてましたが,BC500年ごろからキリスト誕生の時期ごろには主食となりました。しかし当時はまだ自然発酵法も酵母発酵法も知られていませんでした。当時のパン用穀物は、小麦,大麦,アワでそこに燕麦が加わり、ライ麦はBC700年頃加わってきました。ラ・テーヌ鉄器文明(BC500)では回転式製粉機もありました。
2、古代エジプトのパン
ナイル川流域の肥沃な地域に栄えた古代エジプトで、このパンの文化は大きく進歩しました。古代エジプトでは、麦は神オシリスと女神イシスが与えてくれた賜物で、人々はそれに対し労働で答えねばなりませんでした。汗してはじめて神の麦やパンを与えられることが出来ました。オシリスは農耕と祭事の神であり王であります。弟セトに殺害されるが彼の妻イシスはバラバラにされた夫の死体を求めて全エジプトを探し,夫をよみがえらせました。これによりイシスは貞節と慈愛の女神としてあらゆるものの母と崇拝されました。その子ホルスを入れてエジプト神話の三神となりました。
BC12世紀の大規模な製パン法として、ラムセス3世(エジプト新王国・第20王朝の2代目のファラオ)の墳墓から出た壁画に製パン法がありました。BC3000とBC2500年の発掘像に、製パンの粉挽き女像とパン焼き人像がありました。パンは汗の報酬です。エジプト人は1日平均3−4個のパンとビール2本,その他を食していました。パンの消費量は莫大でした。パンは子供の誕生に関する風習から、死者の埋蔵の儀式などにいたるまで彼らの生活面の全てに役割を持つ大切なものでした。
ツタンカーメン王(第18王朝期の王、1352-1320BC)の墓の発掘中(1922年)に発見された原形の基づくエジプトのパン(BC1360年ごろ)がありました。更にパンは古代エジプトの経済生活を支配し、この国の繁栄に貢献していたと言っても過言ではありません。古代エジプトのパンの種類は極めて多種多様で、BC12-13世紀のパピルス文書によると、その数は円形、長円形、三角形、十字、寝そべった動物の形、花の形、河馬の形等30種類にものぼっていました。円形,長円形,三角形のパンの場合,生地に薬味を混ぜたり,外皮に味付けしサンドイッチにして食べました。サイズは,長さ20cmのものから160x35x50mm、煎餅状のもの,直径25cm,12−18cmの物まで様々ありました。これらのパン型は、正に美術工芸品のようで、その美しさは今日でも及ぶものなしというほどの精巧さです。
3、古代ギリシャのパン
古代ギリシャにおいても、古代エジプト同様にパンは神々の賜物と考えられていました。アテネ国立博物館に行くと、Elefsisで発見された大きな石レリーフ像があります。古代ギリシャの人たちはパンを女神デメテルの賜物と考えていました。
古代ギリシャの主食はマザイという平焼きパンで、トロイヤ戦争の時代(ギリシャ王国連合とトロイヤ王国との間の戦争)にもこの平焼きパンが食べられていました。材料は大麦を使い、熱したレンガ上に捏ねた生地を乗せ,次にこれを炭火用の鍋に移し,最後に半円球のかごに入れて焼きあげるというもので、何百年間もこの大麦パンを食べていました。製粉の仕事とパン製造は男の仕事でした。女は笛の音にあわせて生地を捏ね、そしてパン売り人として大切なパートを担っていました。
醗酵パンがエジプトからギリシャに入ってきたのはBC8世紀ごろと言われています。醗酵パンに必要なイーストは当時ズーメイと呼ばれてましたが、ブドウ収穫後、ブドウ酒とキビを混ぜ、大量の醗酵液をつくり、1年間保存できました。パン種は小麦粉生地と白ブドー酒を混捏しパン生地を3日間ねかせて作り、乾燥後、ドライイーストとして貯蔵しました。パンを作る時にその種を必要なだけ取り出し小麦粉とまぜました。BC6世紀頃には、こうして作った醗酵パンは、特別な祝祭日の公の宴においてアテネ高官、市民、外国公使たちのみが食することを許可すると言う条項の法律もありました。しかし大麦パンは安価で貧困な人々と奴隷の食べ物(主食)の唯一のものとして食べられていました。
日常のパンは円形で十字に8つの切れ目をいれる、リング状パン、花環状パン、ロールパン等がありました。当時の製パン用穀物は大麦、小麦、レンズ豆、キビ、エンバク等でした。更にギリシャ人は炭酸ソーダ,ブドウ酒をパン種代わりに用いたパンも作っていたと言われてます。上等なパンにはチーズ,牛乳,アニスの美,胡椒,けしの美,蜂蜜,クリームなど添加したものがありました。小麦粉とバターで作った菓子は,そこに燭台をのせ行列に伴って月の女神への献げ物とされていました。クリーム,蜂蜜,胡麻入り雄鹿の形の菓子は、狩猟の女神への献げ物でした。
何れも日常生活とともに神々の礼拝の儀式にも欠かせないものでした。
当時のパン・菓子類には以下のものがありました。
エリテス---炉で焼くか、白熱灰で蒸焼きにするパンのこと
キュボイ---立方体の形
エピダイトロン---食後の上質の小型菓子
セサミテス---蜂蜜とゴマを塗った平べったい円形菓子
メリペクタ---蜂蜜を入れた小型パイ
クレイオン---肉を入れた美味しそうなパイ
エントリュプトン---婚礼用菓子
キュリバナス---血液を用いた婚礼菓子で、極めて儀式的なパン
グロムス---ドーナツ
パタラ---弓や琴,矢の形
パタラ---豚の形、小型の動物の形の菓子。
ギリシャは芸術とともに、製菓、製パン技術の開花期でした。当時の詩人デニアスの言葉に「我々はあらゆる種類の粉を滋味豊かな食物にする術を知っている。たとえば、雪のごとき白いパン、小麦粉に少量の牛乳,油,塩を加えれば最上に味よきパン、小麦粉に蜂蜜を混ぜ、生地をうすい葉にくるんで焼き、あついうちに食べるパンなど」とあります。さらに蜂蜜,牛乳のみを加えたる菓子,又蜂蜜,ゴマ粉,チーズないし油を混合せし菓子などありました。終わりにあらゆる種類の果物を用いた菓子などもあり,ギリシャにおいて製パン,製菓材料は極めて高い評価を受けていた上,その製品が非常に庶民の間に普及していました。
4、古代ローマのパン
古代ローマにおいても、パンは神々の高貴な賜物と考えられていました。パンが当時のローマ人達の文化生活および信仰に占めていた重要性は,さまざまな慣習などから明らかです。
日常生活とパンとの結びつきは大きく、例えば結婚式の契りはパンをもってし、その守護神ジュピターへの表敬として神聖な儀式によってとり行われていました。パンは大麦パンを用い、そのパンをちぎって食する行為が今から踏み入れることになった二人の新生活の門出の象徴でした。それに対して「釜からパンの前借り」(婚前に子を生みたる娘)という言葉も残っています。
当時のパン職人はギリシャからの移民なので製パン技術については十分周知していました。製パン業者は殆どが製粉業との兼業でした。製パン所の裏庭には回転式の重い挽き臼があり、そこでは奴隷が牛馬のように酷使されていました。ローマでのパンの消費量は莫大なもので、よく組織されたパン製造業者の同業組
合も出来ていました。製パン業者組合の徽章はこねばちに3本の麦の穂が着いたものでした。これは当時の誉れ高い徽章でした。パン職人たちは引っ張りだこで年俸は高額、ローマ時代は製パン製造業界の黄金時代でした。紀元前4世紀に、製パン所はローマの町だけでも254カ所もあり、紀元前123年からはローマ市民36万人にパン、及び穀類の無料配給が始まりました。
ローマ軍の食糧として、ローマ艦隊はラスク(軽焼きビスケット)、陸軍は軍用パンとして多量のパンを貯蔵していました。
ローマ時代のカトーの料理本(cato,234-194BC)"Cato and Varro On Agriculture"によると、
・こねあげパンーーー臼と手を入念に洗う。小麦粉をふるった上に水を注ぎ,良く捏ねる。十分に捏ね上がったら生地を成形する。そこにテストという深皿様の器をかぶせて焼き上げる。
・リブム(今日のチーズブレッドの元祖)---チーズ2ポンドを臼でよくつぶす。そこに小麦粉(シリゴ小麦粉)1ポンドを加え,チーズとよく混ぜる。卵を入れ全体よく混ぜる。丸め,木の葉をしき,テストをかぶせて直火で焼く。
・グロトウス(ドーナッツ)---リブム同様の生地を作り,熱した深鍋に油を入れ1-2個生地を入れ,焼き上げる。蜂蜜をその上に伸ばし,芥子の実をつける。
ローマ時代のパンには以下のものがありました。
・パニスホルデアキウス---粗悪な大麦パンで奴隷の主食
・パニスブレベイウス---小麦粉と麩入りの庶民パン
・パステイリ---香り入りの甘いパン
・パニスフルフリュウス---麩入りパン
・パニスカンタブルム---麩入りパン
・パニスルビドウス
・パニスキバリウス---荒くひいた小麦粉と麩を混ぜたパン(配給用パン)
・パニスフェルメンタトウス---普通の醗酵パン
・パニスフリクスス---トーストパン
当時最も味の良かったものはライ麦パンだった。
・パニスエリクスス---小型のリング状の小麦ロールパン
・コロナイ---花冠ロール
・パニスカンデドウス---最上の精白小麦パン
・当時珍しいパンとして、以下の様な大麦生地でつくるパンがありました---小粒の種無しブドウの果汁を混ぜて捏ねる。捏ねた生地を9日間よく膨らませ、成形後壷に入れて釜で焼く。食べる時,ミルクと蜂蜜をまぜて柔らかくするというものでした。
5、中世初期から後期に到る菓子とパン作り
こうして発展したローマの製パン法は、遠く西ヨーロッパ、イギリスにまで広がりました。上等な精白粉菓子,ケーキ類の製法技術も広がりました。ローマ帝国からのパウンドケーキを作る半球形のケーキ型は現在のものと変わりません。
ローマ帝国は、北方のゲルマン人の侵入と東方のササン朝ペルシアの侵入があり、395年に西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂しました。さらにアジアの遊牧騎馬民族フン族の侵入によるゲルマン人の圧迫により、ゲルマン人の中の西ゴート人がそれに耐えられなくなり自国から逃げ出し西ローマ帝国に入ってきました。そしてゲルマン人の大移動(4−5世紀)が起こりました。フン族はさらにゲルマン人を追い、西ローマとゲルマン人の連合軍と衝突しました。フン族は451年のカラウヌムの戦いに破れ消え去りましたが、ゲルマン人の侵入はとどまらずゲルマン人傭兵隊長オドアケルのとき476年に西ローマ帝国は滅亡しました。同時にローマ帝国に起った製パン技術も消失しました。西ローマ帝国にあったカトリック教会は東ローマ帝国の保護を受けながら首位権を主張しローマカトリック教会として権力をもつようになりました。ローマ教皇グレゴリウス1世はゲルマン人へのキリスト教布教のためマリア、キリストを聖像化しました。このとき製パンの必要性も生じたものと思われます。キリスト教ではパンは葡萄酒とともにミサ聖祭のときの大切なキリストの体の一部です。
中世の製パンの発祥地は不明です。製パン職人の組合組織の発達に動きが見られたのはアジア遊牧民族のフン族がヨーロッパ各地を荒廃しつくした後、即ちヨーロッパに要塞都市建設が始まってからです。中世初期にはじめて製パン業者に言及している記録文書がみられるのは、717-719年のアレマニア法典です。その中には「見習い、又は職人一人をかかえもつ料理人、ないし製パン職人が殺害されるときは、その職を継ぐ者40ソルドを納むベし」と書かれています。そのころのパンで白パンはまれでした。794年当時のパンの配合は、スペルト,ライ麦、小麦の混合、あるいは挽き割り小麦、ソバ、大麦、燕麦の混合で、燕麦パンは粗悪なパンと考えられていました。
中世初期の多くのパンには十時が刻まれているのが特徴的です。その目的は、パンを割りやすくするということもありましたが、それはキリスト教の印でした。円形、あるいは半円形で平べったいもので,大変美味しい白パンには敬意がはらわれていました。食べる時には白いナプキンを使い、パンは皿に乗せてたべることとしました。中世初期の製パンの発展は主として僧院に負うところが大きいのです。
10世紀後半、フランスでは大修道院長からパンの焼き方伝授されました。その製パン法とは、2−3ブシェル(1ブシェル=36L)の小麦粉に水を入れ,よく混ぜる。出来た生地を発酵させる。これを捏ねて成形し,パン焼き職人に渡す。渡された職人は釜で焼く。ここでの発酵は当時は珍しいものでした。僧院における製パンによってパンの品質が向上したばかりでなく,その種類も豊富になりました。
9-10世紀の僧院におけるパン
・無発酵パン
・普通の小麦発酵パン
・スペルト小麦パン
・白熱灰焼きパン
・リング状ロールパン
・月の形した精白小麦粉菓子
・卵ロール
・ローストパン
・ウエハース(軽焼きセンベイ菓子)
- ・熱い焼き立てを食べるパン
・クラッカー
・菓子パン(女の姿の形をする)がありました。
キリスト教関係のパン菓子は僧院から始まり一般にも普及しましたが,実際には僧院内の製パン所でつくられていました。
12世紀、製パン業者の連合体が増加しました。国家はかれらを国の監督下におきました。修業期間を規制し、1278年パリ奉行の布告見習い(徒弟)期間5年,職人の奉仕期間4年の規定がありました。修了者はパン職人となり(製パン所主となる)営業の権利が生じました。イギリスでは同業組合(ギルド)は苦しい立場でした。国王ヘンリ--2世の1180年の時,ギルド廃止令が出ました。商人ギルドが大きな勢力をもっていたのでこれに対する危惧からでしたが、しかし製パン業者は権力をふるう様になりました。
当時のパンの作法書(ロッテルダムのエラスムス(1466-1536)著)には以下の様にあります。;酒杯、ビールカップ、そしてよく磨いたナイフなどは右手に置き,パンを左手に置け。パンを切るには自分のナイフでやれ。パンの皮をとりわけてはいけない。又、四方八方に切れ目をいれてはいけない。ヒトは常にうやうやしくパンを扱い、両手で持つのはパンが大切なもの,聖なるものだからだ。だから誤って地面に落としたらこれを口づけする習わしだ。当時からの言い伝えで、「パンは神様のお顔だから決して落としては行けません。ひろいあげたら直ぐに口づけしてあげないとイエス様やマリア様がお嘆きになりますよ」と人々は語り継いでいます。同じ風習がヨーロッパ各地にあります。中性初期の製パンの発展は僧院に負うところが大きかったのです。僧院のパンは品質も良く、その種類が多かったのです。王様のお菓子の風習もあります。エピファニーの祭日には家庭やパーテイの席上で、豆1−2個、または小さな陶器製の人形を中に隠してケーキがでます。誰でもその隠しものにあたる幸運を引き当てた人はその日一日中王様あるいは女王様になって他の人々に命令することが出来ると言う風習がありました。
10-14世紀------ずっとこれまで通り続きます。
16世紀までは一般的であった平べったい円形パンがこの頃から,都市でほぼ現在切られる様な嵩の高い長方形になりました。しかし農村ではそのままの形です。
17世紀までは白パンはどこの国でも贅沢品でした。しかしイタリア、フランスでは一般庶民に白パンが広がりました。白いパン,ケーキは人々のあこがれでした。その後,近年の製粉技術の進歩と小麦粉クロリネーションなどにも繋がります。1793年フランスでは製パン業者に標準パン一種類の製造しか許可しないことを規定する勅命が出されました。その配合は小麦3/4, ライ麦1/4と決められました。
18世紀のパンなど現在のパンとかわりません。12世紀以後、最も一般的なパンは、ライ麦パン(黒パン),小麦パン,燕麦パン,麩パンでした。イタリアではトウモロコシパンもありました。900年アブーベルク・アル・ラージがパンの栄養についてははじめて記述しました。
◯ パンのことわざ
額に汗して己のパンを得べし(旧約聖書)
人はパンのみにて生きるにあらず(新約聖書)
パンより厚いバターの約束 (政治家の公約)
親の焼いたパンを食らう(親の光は七ひかり)
その昔白パンを食い尽くしたるもの(好きの道にはこもかぶる)
釜からパンの前借(婚前に子をうみたる娘)
お上のパンを食らう身(兵役につく)
人のためと己が口のパン (酒買うて尻切られる)
引用図書
"Brot seit Jahrtausenden" Max Wahren著 佐藤勝一他 訳
出版社 岩手県パン工業組合 1969年
「5000年前の男―解明された凍結ミイラの謎」
コンラートシュピンドラー 著, 畔上 司 訳
文春文庫- 1998年
メインページ