「小麦粉と私 I」
1、森永入社~三島、ホットケーキ,クロリネーション
私が東北大学を卒業して森永製菓(株)の研究所に入ったのは、1970 年4月であった。森永に入りすぐ静岡、三島の食品研究室勤務となった。東北大学卒業論文では「大腸菌の生産する多糖類の構造研究」を渡邊 敏幸先生の指導で行った。なぜ森永を希望したのかと問われた時、多糖類の関連の仕事をしたかったからと述べた記憶がある。この卒論のテーマからであろう。無気力で無分別な雰囲気の三島の研究室であった。当研究室は鶴見研究所に統合され現在はない。
上昇志向の強かった小生が大学を卒業して、企業研究所でも学位などとれる様な仕事を行い、自分を何とか高めたいと思っていた。あの三島の研究所ではあまりにも合点がいかなかった。ぬるま湯的で、あれで十分企業が成り立っているのかとの思いが強く、一刻も早くチャンスがあれば他研究室に移動したいと言う気持ちが強かったようだ。上司は松木寿助氏だった。当時の森永は大名企業の感があった。新食品材料を売り込みにと業者が持ってきたサンプルなどもその辺の空いているところに置いておけと言う扱いだったようだ。
始め松木氏から言われたのは、ホットケーキ用小麦粉中の水溶性単糖、オリゴ糖の定量であった。これはペーパークロマトグラフィーを用いて,切り出し溶出後、各糖の定量を行って簡単にその比率を求めることができた。次はノコギリコクヌスットと言う穀物につく昆虫のその卵の加熱処理による孵化停止の温度と加熱時間を求める様な研究だった。これもガラス細管中に卵を入れて加熱処理後孵化率を見るといった実験だった。あとは他社(明治製菓)ホットケーキ製品の添付メープルシロップ膨張の原因確認の様な仕事だった。これは耐浸透圧性酵母の存在だった。他は明確な指示はなかったように思う。松木氏の会社報告書の綴りを読み,その中にクロリネーション小麦粉の研究成果があったが,あまり科学的な実験は行われてなかった。あとは松木氏の後任の仕事をまかされるのかと不安であった。
日本でホットケーキが生まれたのは欧米では子供のおやつに各家庭にあるオーブンで焼かれたケーキ類などがあり、それを真似たものである。ただし、日本の各家庭の当時の台所は貧困で,欧米の様なオーブンは無く,あると言えばフライパン程度であった。そのフライパンでケーキを焼こうと言うアイデアであった。小麦粉は都合よく,水を加えて,匙で撹拌してドロドロにしたものを熱いフライパンに流しこめば中に入った膨剤が炭酸ガスを発して,小麦粉バッターを膨化してくれる。小麦粉独特の特殊性である。こうしたケーキを熱いうちにおやつにして食べようと言うものである。
熱いうちにふわふわのケーキを食べようと言うのがホットケーキである。そこに多少でも砂糖でも入れれば甘くなり、バターでも入れれば香りもよくなり、何も無かった台所にケーキを焼く空間が生まれてくる。こうして日本の貧困の家庭台所に、一大旋風を巻き起こしたのがホットケーキであり、やはりその頃生まれたインスタントラーメンと競合した。あちらには水を入れ、メンと同時にスープがお腹を膨らませた。小生が入社する前にクロリネーションのホットケーキ用小麦粉の技術の話はすでに終了していたのであろう。
何やらテーマもはっきりせぬまま,森永三島食品研究室の生活が始まった。学卒でまだどの程度の研究的能力があるのかもわからぬまま配属されて来て、会社の方もどの程度の実力のある人間なのかもわからぬまま、どのようにあつかったらよいものか、少々試して様子を見ようと言うことで基本的な仕事をさせたのであろうかと感じられた。大卒の扱いもその程度のものであったろうか。当方はそんなことは不明ですぐにきちんとしたテーマを与えられるもの、あるいはそのような研究グループに入って研究的仕事のできるようなものとの食い違いがある様な感じがしていた。併しともかくスタートしたのだが何やら松木氏の研究報告書など見ると、彼は小麦クロリネーションの研究に取り組み、その途中であったものを当方に続けてやれとのことのようだ。小麦粉クロリネーションについては全くその当時小生には知識はなかった。
当時の森永のホットケーキは、と言うと工場は安城工場のホットケーキミックス部門で作っていること、小麦粉は日東製粉の○Kアルプスと言う薄力小麦粉を使っていること、大豆粉など副原料を多くミックスしていることなど、さらにクロリネーションに衛生上の問題のあったことから現在はそれもやってないこと、そのために副原料を入れて何とかクロリネーションに近いものを得ているなどが感じられた。商品は業界トップクラスであった様に思う。今更何を研究するのか。
クロリネーションは米国で1923年ごろ発明された方法で、本来小麦粉の漂白(小麦粉の色を白くする)することが目的だったが、それをやるうちにケーキに思いがけずメリットがあり、これをやらねば納得のゆくケーキが得られないと言うまで重要になり、米国では現在なお継続していることなど知られる。松木氏のところではクロリネーションのやり方の文献なども取り寄せ得られておりクロリネーションのホットケーキミックスへの添加レベル、加水量等の添加量の研究レポート等がファイルの中にみられた。
どうやらクロリネーションの代替の何らかの方法を探しているようである。この研究を小生にそれだけの力があればやらせようと言う基本的な考えがあるようだ。しかし極めて疑惑的なやり方であり、力がなければ基礎研究ではなく、現行製品の改良研究の様なものをやらせたい様な扱いであった。小生は本格的に研究を進め学位を目標にするような企業研究をと思っていたので大きな差を感じた。
松木氏の顔色を伺いながらの悶々とした富士山を見ながらの三島での生活であった。三島ではそのうち社宅からでて市内(大宮町)米山宅での下宿生活を始めた。米山のおばあさんには世話になった。
小麦粉の研究を何かやるようにとのことだったが、文献を調べる内に小麦粉中の特にケーキ組織に与える脂質の影響の論文が少ないことに気がついた。当時の学会では興味が無かったのだろうか。
小麦粉中の脂質をエーテルで脱脂してそのホットケーキへの影響がどのようになるのかを調べて見ようと思った。ホットケーキを1枚焼くのに100g小麦粉が必要である。そうなるとかなりの小麦粉の量をエチルエーテルで脱脂する必要がある。しかもエチルエーテルとなると危険だから大部屋の実験室内では其の儘はできないので別の誰も人のこないようなところで脱脂する必要があった。建物の3階の小さな別室で、大型のソックスレー装置を設置して小麦粉の脱脂実験を行った。この大型のソックスレー装置は新たに購入したような記憶がある。大量のエチルエーテルも同様に購入した。抽出した脂質はエーテルをエバポレートして抽出脂質として回収した。脱脂した小麦粉は広く伸ばして匂いのなくなるまで室温で乾燥した。この小麦粉を脱脂小麦粉として小麦粉量をはかり、計算してホットケーキベーキングに供した。
副原料など入れずに小麦粉、砂糖、膨剤(重曹)、酸性原料(酸性ピロリン酸カルシウム)、水のみで焼き、コントロール(未脱脂小麦粉)と比較した。やはり脂質の影響は大きく、ホットケーキの膨らみは大きく(80%)低下した。ここに回収した脂質をクロロホルムに溶かして0.3-0.4%程混合しベーキングすると、ホットケーキの膨らみの回復することが見られ、興味があった。しかしこのような実験が会社研究にどんな影響があったのかについては常に疑問であった。しかしこのようなケーキ類に、全く卵、牛乳等を使わない薄力小麦粉の研究は当時のCereal Chemなどでも皆無であったと思う。
さらに抽出した脂質を小さなケイ酸カラムをたてて、そこにクロロホルムにとかしてチャージしその後、クロロホルムで溶出した区分とメタノールで溶出した区分に分け、夫々をクロロホルム区分、メタノール区分としてシロップにして回収した。クロロホルム-メタノール-水=65:25:4の薄層クロマトグラフィー展開後ヨード発色し、極性区分と非極性区分とに分かれていることが確認された。各々を脱脂小麦粉に添加してホットケーキベーキングすると,極性区分(Polar Lipid)のみがホットケーキのふくらみの回復に効果があり,非極性区分は全く回復が認められず、しかも極性脂質回復には脱脂小麦粉100gに対し200mgの極性脂質で回復した。Cereal Chemistryに投稿して論文化している。脂質はエチルエーテル以外水飽和ブタノールでも行ったが,一度脱脂した小麦粉は、脂質を添加してもエチルエーテル脱脂小麦粉時の様な膨らみの回復には至らなかった。この研究は上司にも相談せず黙々と進め、上司はそれを黙認してくれていた。相談の仕様がなかった。相談しても企業の仕事との接点がわからなかったからか。基礎研究と言う事で、あるいは自ら方向もわからずにすすめた。
さて、クロリネーションの研究。ホットケーキのねとつきの研究はどうしたらよいものか、松木さんからW. F. Sollarの小麦粉分画の研究、再合成ベーキングによる研究、クロリネーションとの関わりの研究のCereal Chemの論文が数報あることを知らされた。この方向に当方の研究も進めねばなるまい。このころ高等学校卒(沼津工業高校)の男子、近藤君が小生のもとにくることになった。松木氏のご尽力だったか。こちらは黙々と実験を進めるのみであった。そのころ小麦粉分画用の大型の遠心分離機が研究所に入って来た。これも松木氏の力によるものであろう。近藤君とともに小麦粉を酢酸分画して水溶性区分,グルテン区分、プライムスターチ区分,テーリングス区分の四区分に分けるやり方で、これはW.F.Sollarの論文に基づいて作業して、多量の小麦粉を大型の遠心分離機を使って近藤君と連日進め、3区分、即ち水溶性区分以外は粉体にして、水溶性区分は減圧濃縮し、確か仙台の佐々木ガラス店から購入して研究室の中にセットして研究を薦めた。減圧濃縮装置であった。
広い研究室,大部屋の中、メンバーの目にはどう映ったか。松木氏、増田所長の新しい研究の方向性だったと思う。そんなことは知らないのは小生のみだったか。そこまで理解はできなかった。
アルプス小麦粉の分画の比率がわかると、それらを組み立てて再合成ホットケーキベーキング試験に進む。なかなかオリジナルの小麦粉にはホットケーキベーキング結果、膨らみ、ネトツキは得られなかった。合成粉でベーキングしてもオリジナル小麦粉によるホットケーキの様な膨らみが得られなかった。いろいろ考えるうちにいくつかの点が上がって来た。
ミキサーの中に分画区分のプライムスターチ区分(PS区分)、テーリングス区分(T区分)、グルテン区分(G区分)の粉体を一定量入れ,砂糖、膨剤(重曹)、酸性原料(酸性ピロリン酸カルシウム)を入れて、そこに濃縮したWS区分を加え,さらに不足している水を加え、一定スピードの撹拌を行い、できたバッターをパンケーキ皿に取り、オーブン(200℃)中で直ちに焼くと言うやり方であった。撹拌方法、ベーキング方法、仕込み方法は全てコントロールと同様であった。ふくらみはコントロールに比べて80%ほどに低下し元のホットケーキには回復しない。やはり分画したものは粉体にしたものを単にスパーテルで混ぜるだけではホットケーキは復元しないことは明らかであった。
幾つか工夫の必要があった。まず混合粉によるバッターは酢酸臭が多少あること、分画の酢酸が多少残存しているのか。バッター中には、コントロールの様な粘り気が低いことなどであった。
(1)バッターのpHを測定すること、酢酸を使って分画したためか。酢酸が残存し,その匂いがあったことからpHをNaOHで中和したところ、回復の傾向を示したこと,(2)バッターを顕微鏡で見て、コントロールバッターと比較するとグルテン粒子のかけらが多く見られ、コントロールの場合のバッターとは大きく異なった。グルテン区分はコントロール時の様な単純の撹拌では駄目で、顕微鏡下でグルテンのかけらが消失して行くほどミキサー中で激しく撹拌すると次第にバッターに粘りが出た。(3)加水量を多少コントロールより多量にした。加水量は色々変化させもっともよい加水量を見出した。これら3点を守ってホットケーキベーキングを行うとオリジナル小麦粉のものに近いものができた。
この方法を用いてクロリネーション小麦粉とコントロール小麦粉の分画区分の入れ替え実験を進めた。始めに未処理、処理(小麦粉pH3.5のクロリネーションレベル )の小麦粉を分画して、未処理小麦粉分画区分の合成粉の1つの区分のみクロリネーション小麦粉から得られた区分におき替えて実験をすすめて、変化が見られた。さらにクロリネーションレベルを変えた小麦粉からの分画区分を取り出し、未処理合成粉の中にそれをはめていった。
その結果、PS区分のみ、未処理小麦粉区分による合成粉にクロリネーションのPS区分を入れ替えるとホットケーキは処理小麦粉のホットケーキの状態に復元した。即ちベーキング後ホットケーキ加圧後の膨らみの回復が見られた。ホットケーキの弾力性がPS区分のクロリネーションによるためであることが推察された。多くのクロリネーションレベルの異なる小麦粉を酢酸分画し,各区分を集め特にPS区分は未処理小麦粉からの他区分と組み合わせて合成粉によるホットケーキベーキングを繰り返し,その弾力性の変化に着いて検討した。しかしその数値化がどうしても得られず、官能試験になった。その後工夫して数値化するようになったが当時はまだそこまで至らなかった。食品研究の場合、食感の数値化を、機器類を用いて行うことが難点であり,それらしい装置はあるが、具体的な製品の数値化となるとなかなか合致せず困難で、それなりの数値を工夫せねばならぬところが難しいところである。0.2、0.4 、----2.0と細かくクロリネーションした小麦粉からPS区分を集め,他区分は未処理小麦粉からのもので合成粉を作りベーキングを繰り返した。何れもクロリネーションの効果が認められた。クロリネーションレベルを揚げるに連れてホットケーキ組織の弾力性は次第に生じ、ねとつき感は消失した。グルテン区分はホットケーキの膨らみに関与の傾向が見られ、あるクロリネーションレベルに成ると容積は上昇し、それ以上に成ると容積は低下した。T、WS区分については何れの傾向も見られなかった。
PS区分がクロリネーションによる改良の大きな原因であることはW. F. Sollarの論文中にもあったが、そこではネトツキ、弾力性の改良ではなく膨らみの改良とのことであったか?クロリネーションで膨らみによくなると言うことだったか。当方とは、少々異なる点である。PS区分とは小麦デンプン大粒区分を集めたもので直径約20μmのデンプン粒を集めた部分であり、形は横から扁平な凸レンズ状に見え、上からは円形に見える。麦類には生合成のルートの異なるこの大粒(A粒)区分とは別の小粒(B粒)があり,サイズは大粒の1/10である。約2μmである。こちらの粒形は球状である。小粒はT区分の一部となる。
クロリネーションの効果はこの大粒の変化である。しかし未クロリネーション小麦粉から得られるPS区分の大粒とクロリネーション小麦粉から得られるPS区分の大粒とは全く相違ない。何が原因でこの様な効果が見られるものかその形状をみただけでは全く不明である。
デンプン粒はアミロース、アミロペクチンの高分子が極めて整然と並び結晶構造を作り、強固な貯蔵物質である。これが水を加えられ、加熱されると、水をすって構造はゆるみ、強い弾性を示し、一部は粒子から離れるいわゆるゼラチン化、糊化を複雑に生じ全く石塊状のものから糊状に変化する物質である。
この物質がクロリネーションによりホットケーキになるときにケーキ組織に弾力性を与えるように変化するのはなぜか?
何が具体的な原因でそうなるかは全く不明であった。ホットケーキの場合、水を加えてオーブン中で200℃付近まで加熱し、糊化すると言ってもご飯のように完全な糊化は起こってはいないはずだ。
顕微鏡でホットケーキの組織を見てもかなりデンプン粒形はその形を保持していることから、クロリネ−ションの影響はデンプン粒の表面の多少の科学的変化によるものであり,アミロース、アミロペクチンのグルコースユニット高分子への大きな変化は考え難かったが,それも単なる推測にすぎない。データーは全くない、途方くれた。
デンプン粒の表面といってもアミロース、アミロペクチンの構造で粒形を作っているだけで、坊主の頭のようにその表面には何もなく、グルコースユニットの集合体というのがデンプン粒の表面と言う認識と当時は考えられた。デンプン粒が構造と言えば粒子の構造の成り立ちが中心でありそれ以外はないと言うのがこの世界の趨勢であり,このクロリネーションの科学の特にホットケーキ改良のクリテカルなPS区分の変化については全くよりどころがなく手が出ない。何も取りかかるよりどころがないのが現状であった。誰に助けを求めたらいいのか、大学出の数年目の若輩にはそのよりどころもなく、悶々とする毎日であった。
クロリネーション小麦粉から取り出したPS区分、未処理小麦粉からのPS区分の差異を、デンプンテキストブックの分析方法をよりどころに、片っ端から調べたーーーーーー、その相違点を探して行く実験研究を行い、しかし全く変化が認められない、このPS区分の変化がホットケーキ改良効果とは全く関係はないのではないかと自信がなくなってくる。どうしたら良いものか。
どうしたらいいかは誰も教えてくれない。当時静岡大学の助手で静岡に赴任していた東北大農産利用研究室先輩の加藤宏治先生が、三島に立ち寄られた時に,ともに食事の時このはなしをして何かアドバイスをと願ったが,クロリネーションのレベルを細かくとって比較するのがよいと言われた。有り難かった。又東北大、恩師松田和雄先生を仙台に訪ねた時、それならこれが参考になろうと書架から取り出された1冊の小冊子、米国のPurdue 大学Whistlerの書いたクロリネーションデンプンの論文の小冊子だった。
Whistlerは有名な糖質学者でPurdue大の先生だった。松田先生とは連絡があったのだろうか。Whistlerはクロリネーションによるクロール,アミロペクチンの高分子構造中のクロールによる分解等がこと細かく研究され,やはりアミロースがクロールで分解し,その切れっ端がアルデヒド化したりしている様子が記されていた。やはりこの方向で再び調べてみる必要があるかとも思われたが、これ迄のところではこの様な現象は当方の研究では見当たらなかった。
あっても分析方法が違っていたのであろうか。さらに研究室にもどり考えてみる。当時は自分の研究者として能力、実力が不足していて、周囲に誰も相談するヒトもおらず、混乱し、誰かにヘルプを求めていた。何とかしたいと。クリテイカルなポイントに自分が存在して、精神的にもバテテいたかもしれない。25才頃か。
クロリネーション小麦粉からのPS区分と未処理小麦粉からのPS区分を比較するうちに興味あることが見られた。粒子表面の観察を顕微鏡下ですすめている時、水中に懸濁したPSデンプン粒を見ていると粒子と粒子が接近すると何らかの力が働いていることに気がついた。クロリネーションしたPS区分にである。そこでホールスライドグラスという微生物のガス発生をみる小さなガラス器具があるが、これはスライドグラスの中央部の凹んだものである。微生物がガスを発生すればそのくぼんだ中央部に入れられる液体中にガス泡が見られるという訳である。
このガラスを使って実験を進めた。一視野に数十個あまりのデンプン粒が分散するように懸濁してカバーグラスに1滴付着し,これを反転してスライドグラスのくぼんだ所にガラスとその1滴が付着しない様にセットする。デンプン粒は自重でその一滴の中心部に向かって落下してゆくそれを上から顕微鏡で見るわけである。こうしてデンプン粒を観察するとクロリネーション処理したらPSの場合デンプン粒子は接近すると磁力で引き合う様に吸着した。ある種の力で引き合う力が働く。しかもその粒子表面には接合するポイントがあるのか、都合が良くなるとスッと引き合う。そうでない場合は粒が回転してその位置に至ってはじめて結合すると言う具合で、最終的にはそのまま液滴の中心部に落ちてゆき底部に集中する。その数秒間の粒の動きが見られ、これはクロリネーション未処理デンプン粒では観察されなかった。クロリネーションのレベルが上がるほどその凝集の傾向は大きくなった。どんな力で粒同士が凝集したのかは不明であった。
そのクロリネーションPS区分の凝集は、そこにショ糖脂肪酸エステル(SFAE)を添加すると消えた。ショ糖脂肪酸エステルは脂肪酸とショ糖をエステル結合したもので、界面活性剤として使われている。本来デンプン粒表面にはブドウ糖のポリマーが存在していれば当然ブドウ糖のもつOH基がたくさん存在し、これはHOH(水)と極めて仲の良い性質で親水基と呼ばれるもの、従ってデンプン粒は親水性であり,ショ糖脂肪酸エステルはショ糖のもつーOH基と脂肪酸のーOHをはじく(疎水性)分子が一体にある物質で、親水性と疎水性の両方を一体にもつ物質で油と水を乳化する力が大きい。
これを顕微鏡下のクロリネーションデンプン粒の凝集しているところに添加するとデンプン粒の凝集性が一挙に破壊されて元の未処理デンプン粒の挙動にもどる。これは凝集適性がクロリネーションデンプン粒表面に疎水基が生じたためで、その疎水基同士が集合して凝集した。そこにショ糖脂肪酸エステルを添加して疎水域に脂肪酸部分が結合し、デンプン粒表面には,ショ糖の親水部が現れ再び未処理デンプン粒表面と同様になったものと思われた。従ってクロリネーション処理でデンプン粒(PS)表面は疎水化に変化したものと思われた。それがどのようなメカニズムかは不明であった。
再合成粉のうちPS区分のみクロリネーション小麦粉からのものは、ホットケーキの弾力性に回復が認められたが、そのホットケーキの合成粉バッターにショ糖脂肪酸エステル添加するとこれまで認められた弾力性の回復は消失し、再び強いネトツキ感(非弾力性)を示した。このことはクロリネーションによる弾力性の発生は小麦粉中のデンプン大粒区分の表面が疎水的になることが原因であることが推察されたのである。
この他、クロリネーションレベルをあげながら小麦粉のB.アミログラフ試験を行った。その際、本来小麦粉 50gに対し水450 mLで行うアミログラフ試験を150 gに対し水 150 mLと言うようにして高濃度の小麦粉/水比率にして、粉の性質を大きく数値に反映し 、加温せずにそのまま装置を運転した。
クロリネーション処理レベルをあげるに伴って小麦粉/水の粘度,BU値はアミログラフを運転するにともなって、即ち撹拌するに伴って上昇することがわかった。これもクロリネーションによる小麦粉中ほぼ4割(?)を占めるPS区分の変化、あるいはその他の理由による物性の変化による原因と思われた。
当時小麦粉研究で有名な大阪女子大学の松本 博先生を訪問する機会があり,其の後の当方のデーターを逐一先生に送り相談に乗ってもらっていた。
学会発表の経験もなく、これらのデーター、あるいはそれまでのデーター等は単なる企業の報告書にしたのみであり、このままこれらのデーターは埋もれてしまい、陽の目を見ない、学会でも陽の目を見ることなく消失してしまう感じがし,松本博先生もこれを大きく心配してくれた。会社からは学会発表は認めないと言う。これまでも若いヒトに学会での発表機会を与え、其の儘企業から離れて行くものがいたので、小生の発表なども認められないということであった。日本の学会ではなく、海外なら、海外の論文なら当方のデーターが国内では調査しないだろうから外国誌への発表ならいいだろうとのことであった。
松本 博先生からも海外の論文への発表を勧められた。しかし当時の当方は、論文の書き方も見当が着かずで。しかし英文となると全くどうしたものか全く、よりどころがなかった。一級の英文誌CEREAL CHEMISTRYを読みながらこれを真似してはということか。少しやってはなかなか前進せず、やはりきちんとした訓練を、研究、論文化等の訓練を受けたいと思うようになった。きちんとした研究者のそのやり方を見たい、論文の作り方を見たい。自分には空想だけの世界ではこれは実現しないと思うようになった。
そのころアメリカのSoft Wheat Flour の研究所の世界的に有名な日系2世のケーキ用薄力小麦粉の研究者、W.T.YAMAZAKI 博士が奥さんと日本に来日中で、東京の新宿のあるホテルに泊まっていると松本博先生から連絡があり,彼に今までの小生の実験データーのコピーを持ってホテルに訪問しろと連絡があった。
喜んで新宿の当ホテルに英文データーを持って先生を訪ねた。新宿の大きなホテルに宿泊しておられた。快くYAMAZAKI先生は迎い入れてくれた。松本先生から既に連絡してくれていた。英語しかできないYAMAZAI先生、日本語しかできない小生は、自分の英文図面を持って図面に基づいて英語での説明あったが、図面をたどたどしい英語で少しずつ説明していった。YAMAZAKIにしたら同じ分野のもので一目瞭然で直ちに内容は理解してくれた。
小生のデーターを見て、「これはいままで見たこともない結果だ、早々に論文化しなさい」と大きな激励をいただいたことを思い出している。
自宅にもどり直ちに松本博先生にその時の様子を報告した。松本先生は其の後小生とYAMAZAKIの会合のことを面白く文章に残してくれた,以下松本先生の文面である。一生、先生に感謝する次第で小生の後輩にもこうありたいと思うようになった。こうして松本先生から強いPUSHを受けながら自ら何とかCEREAL CHEMISTRYに論文を作成せねばならないと思って来た。
"「松坂の一夜」
私(松本博先生)はおかしな回顧趣味を持っていて、この間から小学国語読本の再印刷されたのを買って来て、悦に入って読んでいる。その巻11に「松坂の一夜」と言う一文。これをことさら印象深く読んだ。皆さんも45才以上の方なら覚えておられる方もあるかもしれない。
これは古事記をライフワークとしてこれから勉強しようとする本居宣長と、古事記研究の老大家加茂真淵(加茂真淵)の松坂での出会いを記録したもので、ラストシーンは次のように結ばれている。
「夏の世は更けやすい。家々の戸はもう閉ざされている。老学者の言葉に深く感激した宣長は未来の希望に胸を踊らせながら、ひっそりとした町並みを我が家へ向かった」
何事によらず、これからことを始めようとするものには、ちょっと大げさだが本居宣長の感じた様な戸惑いを感じ、何かのアドバイスを求める気持ちが強いのではないだろうか。
このようなときに与えられる激励は身にしみてありがたく感じ、一生忘れ得ぬものになるであると思われる。私にとって25年前の阿久津先生、藤山先生との出会いは実に有り難いものであったとお今もしみじみ思う。宣長の様な偉いヒトに自分を例えるのもおこがましいが、凡人であればあるほど、先人のアドバイスは尊いものとなる。
昨年(1975年、昭和50年)の秋、アメリカ農務省の研究者で、日系人の2世ウイリアムヤマザキ博士が来日した。このヒトは軟質小麦粉、特にケーキやクッキーの理論的な研究においては、世界では右に出るヒトがないと言われるほど多くの業績をあげているヒトであるが、私はこの人に日本のあるヒトを紹介した。この人はホットケーキの研究に人生をかけると思われるほどの仕事をやっているヒトであるが、私は密かに真淵と宣長の出会いをこの2人の出会いに想像した。日本語がうまくしゃべれないヤマザキ博士、英語がうまくしゃべれないAさん、この会見がどのように進んだかはわからないが、Aさんの用意した英文の図表によって共通の話題は十分にこなされたに違いない。この会見のあとAさんからかかった電話の声が弾んでいたところを見ると、私の企みは成功したと思う。これで又ホットケーキをライフワークとするヒトができた。
企業もこれからはパンをライフワークとするヒトを増やす為の援助をしてほしい。若いヒトも何かに自分を打ち込むことをやってみては?人生は実に楽しくなる、私の年齢も、私が若いときに出会った阿久津先生や藤山先生のそれになった。このお二人ほどの強い影響力は持ちあわせておらないのは残念であるが、私も若い人々と共にライフワークのパンの研究を続けてゆきたいと思う。"
そのころ森永から米国ロッシェ研究所に長く留学していた堀西ヒロオ氏のために生化学研究室が設置される事になり、研究者を集めている事を耳にして研究内容共々堀西氏のもとで米国の研究のやり方、研究ノートの付け方、デスカッション、論文の書き方等をみるチャンスであろうと思われそちらへの移動を希望した。
昭和39年(1965)には鶴見の生化学研究所に移動した。アメリカの研究所での研究ノートのつけ方、研究体制、研究のやり方を其のまま日本に持ち込んだきらいがありそこにとびこみ、多少のギャップを感じたが大いに刺激を受けた。研究ノートの付け方、研究内容の定量的な捉え方を是まで知らなかった世界であり,移動は正解であった。
まだコンピューター等の電子化は成されてなかったが、秘書を使って研究結果は逐次英文化し、投稿された。彼の論文作成それを横で見て、英文論文の原稿がタイプでできあがって来るとそれを繰り返し読み直し、記憶する程読み直し、なるほど英文論文はこのようにして作られるのか。データーはこのようにして扱い、論文化するのかとそこで学んだ。堀西氏が途中数ヶ月アメリカに行き、研究室がその間途絶えた次期があった。丁度いい機会と思い、是までの小麦粉研究の論文をデーターにもとずいて作成してゆき、CEREAL CHEMISTRYに3報投稿した。厳しい審査があり、数回レフェリーとのやり取りもありACCEPTとなり、こちらの研究室に来て良かったと思った。論文は三島での上司、松木氏との連名であった。生化学研究室にきていたバングラデッシュ出身のラシド博士は英語も巧みで、彼に論文の英文を見てもらい、これも大きな助けであった。其の後堀西氏帰国後、小生の三島での仕事の論文化を報告し、喜んでもらえるものと思ったが、あまり好意的では無かった。そのころ大阪女子大学の松本博先生から、企業研究では限界があるから大学の研究機関への移動が勧められた。さらにアメリカへの留学も勧められた。
1981 年には森永を退社して、京都の聖母女学院短期大学に移動した。将来は四大に昇格と言うカトリックの短大であった。東北、東京の関東圏の生活から関西県への家族引き連れての移動であったが、松本 博先生、親父等は強引にどしどし押し進めるアドバイスであったが、今思うとやはり戦前のヒト、男は強い、判断力、行動力であると思われた。生化学研究ではAMINOACYL BTRANSFERAZEの仕事をすすめたが、堀西氏の不在中にウシ精子中のAMINOACYL TRANSUFERASEを発見して、是もほぼ発表直前まで論文化していたが、堀西氏帰国後この話しは消えてしまい、小生退職後、グループの同僚が単独論文にして発表していた。企業の仕事だから仕方ないだろう。
京都にうつり、小麦研究はすすめられた。学位取得を目標にして是までの研究を続けた。聖母女学院短期大学の学生指導、講義、教員生活、是もまた、企業内のこれまでの研究とは大きく異なり、大きな齟齬を感じる生活となった。しかし短期大学では先輩の先生方を見様見真似で吸収し、多くの講義等こなしてゆき、宗教(カトリック教育)教育なども新しい世界でどん欲に吸収できた。
今まで知らなかった教育界の仕事、若い女性への教育の仕事に関わり、其の後神戸女子大での研究、教育の為の大きなステップとなった。これ迄の第一歩から周囲より受けてきた影響に対し、御礼の言葉もなく足蹴で乗り越えて来たのは不遜であったのではないか胸苦しい。いい機会ではあったが,そんな気がした。
さて小麦粉、クロリネーションの仕事は其の後どうなったか。
小麦粉のクロリネーションに代替する論文は英国の研究に見られ、小麦粉をドライヤーの容器中に入れ,回転しながら外部からガスバーナーで加熱すると言うやり方の論文であった。この方法でクロリネーションに変わる食感が得られる、容積変化が得られるというのだろうか、どのぐらいの乾熱処理なのかその乾熱処理の範囲が大きすぎて見当もつかない。ホットケーキ用小麦粉を乾熱処理するなどとは、全く闇夜に鉄砲の如く見当が着かない。何やら論文中にはベーキング結果以外にジメチルスルフィド(DMSO)を用いてその相関性を見ているデーターもあるが、あまり役に立たない。しかし乾熱処理はクロリネーションと違って安全衛生面の点から興味深いものであった。
当方のホットケーキの弾力性とクロリネーションの関連はPS区分のデンプン粒表面の疎水化との関連性が認められた。デンプン粒表面の疎水性(親油性)が生じるとホットケーキの弾力性が獲得されるわけであった。そうならば乾熱処理でホットケーキ組織弾力性が得られるならば、乾熱処理してもデンプン粒表面が疎水化しなければならないはずだろう。小麦デンプン大粒、PS区分がクロリネーションでは無く乾熱処理でPS区分表面が疎水化するはずである。そうならばホットケーキに弾力性が生じてもおかしくないはずである。逆に言うと、PS区分の表面が疎水化しなければホットケーキの改良効果が得られる事はあり得ないと言う事になる。従って小麦粉処理、この場合乾熱処理として水を入れないで糊化しない加熱処理方法であるが、この方法でも小麦デンプン粒表面に疎水化が起こり、ホットケーキベーキングの改良効果が生じるはずである。この仮説に基づいて実験を進めた。小麦デンプン区分(PS区分)をどのように乾熱処理したら良いか不明である。そこでシャーレに少量の室温で乾燥したPS区分をとり、これを一定温度の乾燥機中に一定時間放置後、室温に戻しこれを試験管に入れ、水を加え、オイルをさらに加えて激しく撹拌してデンプン粒の親油性を測定した。温度は室温、80, 90, 100, 110, 120, 130, -----で150℃付近まで、放置時間は30, 60, 120, 180分ほどとした。勿論未処理の時は水中でオイルを加えて激しく撹拌後も放置すれば試験管中でオイルは水の上に浮く、デンプン粒は水中に沈む。三者ははっきり分離する。デンプン粒は疎油性、親水性である。ところが乾熱処理にて 80 ℃,120 分頃からデンプン粒は親油性を示し、オイルに結合して,オイルが多くなるとオイルの浮力でデンプン粒は全て水の上に浮き,オイルが少ない時にはオイルはデンプン粒に結合して全て水中に沈んだ。乾熱処理により,デンプン粒は疎水性に変化したのである。これには驚いた。
デンプン粒表面には油が結合したのである。しかし色々試験するうちに必ずしもオイルに結合しない時があり、実験の再現性が不確実になる、エラーだったかと思われた。
しかし乾熱処理にとりかかるデンプン粒の水分含量が大きな鍵であり、水分含量を測定し、殆ど水分の無い様なデンプン粒は乾熱処理しても親油性は生じない事がわかり、少々湿らせてから乾熱処理したところ強い親油性が発生した。何れの場合も勿論デンプン粒は全く糊化しておらず顕微鏡的には粒の形状の変化は生じない。
クロリネーションPS区分の示す疎水化(親油化)は、デンプン粒表面のタンパク質をタンパク質分解酵素(ペプシン、トリプシン,キモトリプシン等)で処理するとその親油性が消えた。さらにプロテアーゼ処理したデンプン粒はクロリネーションしても親油性は認められない事からデンプン粒表面のタンパク質がクロリネーションで親油化を示したものと思われた。デンプン粒表面のタンパク質を集めて,未処理、処理のタンパク質パターンを検査する様な研究システムは当時の研究室には無く,またそうしてもレベルの低いクロリネーションではっきりクロール化にタンパク質がその正体を表すかどうか極めて技術的には困難と思われた。
クロリネーションした小麦からPS区分を集めそのクロリネーションのレベルを上げたものも同時にPS区分を集めPS中へのオイルの結合性を調べると,クロリネーションによって次第に親油性の増加する事を認めた。
さらにデンプン粒表面の塩素原子の吸着を元素分析法によって確認した。さらに水に非常に溶けやすい牛血清アルブミン(BSA)のFRACTION Vのパウダーに塩素ガス処理を行い,アルカリにとかしてUV紫外線吸収スペクトルを見ると、OD280付近の吸収に異常な変化が認められ,塩素のチロシン残基への吸収が推察された。
BSAは非常に水に溶けやすいため,シャーレに水に溶かしたBSA溶液を入れこれを扇風機で乾かし、再び加水すると直ちに可溶化する。この通風乾燥したところに塩素ガスを吹き込み、しばらく後、加水するとBSAは可溶化する事無く,極めて薄膜として水中に浮かぶようになる。
そこでアミノ酸(20種)のキットを用いて、各アミノ酸パウダーの少量に各々クロリネーション(クロールガスを吹き込む)処理を行ない、アミノ酸のペーパークロマトグラフィー試験を行うと、二重展開後ニンヒドリン発色を行ったところ,リジン、チロシン等のペーパークロマトググラフィーに新しいスポットが発見され,クロリネーションレベルをあげるとリジンなどの新しいスポットの発色が強くなり、オリジナルのスポットは小さくなった。チロシンでは2点新しいスポットが見られた。チロシンでは同様ハロゲンのヨードチロシン2種は市販されており、モノヨードチロシン,ジヨードチロシンであり、これらをクロリネーションするとモノヨードチロシンはジヨードチロシンと同一RF値の新しいスポットが現れた。ジヨードチロシンは新しいスポットは現れなかった。ヨードの結合している同一部位にクロールがはまっているようで、ペーパークロマト的には何れも疎水的アミノ酸に変化している事がわかった。
塩素がタンパク質に入り込んで疎水化を示し、このタンパク質がデンプン粒表面にあり、デンプン粒の親油性を示す事が明らかになった。
ここで問題になるのは本来デンプン粒表面にはタンパク質などは存在しないと言うのが常識であったが、こうして考えるとタンパク質の存在は本当に存在しないのかどうかが疑問に思われてきた。
1987年11月1日アメリカナシュビルで第72回AACC(American Association of Cereal Chemists)大会が行われ、ポスターセッションにはじめて出席参加した。小麦デンプン大粒(PS)区分表面のタンパク質の存在有無の論文であった。小麦デンプン粒表面にタンパク質が存在するものとして何とかこれを証明したいと思い、工夫を重ねていた。例えばタンパク質色素によるデンプン粒の染色である。色々なタンパク質染料は存在していて、これらで片端から染めていった。試験管に少量のPSをとり、ここに水に溶かしたタンパク質染料を加えて激しく撹拌し、その後水で徹底的に洗浄して余分な染料を除去して染液が着色しなくなるまで洗った。其の後デンプン粒は各々に染色し、これをシャーレ上で乾燥して着色したデンプン粒をみてこれなら証明できるだろうと自信を持った。しかし顕微鏡で拡大して見ると,デンプン粒表面の着色は顕著には見えない。感度が低いのだろう。もっと高感度に顕微鏡ではっきりみる方法はないか探した。アメリカの研究者の微量タンパク質定量の実験に、蛍光染料(フルオロスキャミン)を用いてタンパク質があれば蛍光を発生する微量タンパク質定量を行う方法があった。このフルオロスキャミンはタンパク質が存在するとそれと反応して蛍光を発するというものであり微量タンパク質がデンプン粒表面にあれば蛍光を出すであろうと実験した。
しかし蛍光顕微鏡はどこにあるか?これを探さねばならない。大学の同期の宮本君が鎌倉のロッシェの研究所にいて,彼に電話して,やってくれることになり、蛍光化したデンプン粒を作って彼に送った。しばらくしてもどってきたカラー顕微鏡写真の数々には驚いた。
デンプン粒表面が輝いていたのである。デンプン粒表面に存在するタンパク質はフルオロスキャミンと反応して蛍光を発した。これはデンプン粒表面にタンパク質のあることの証明であった。この写真を拡大してAACCでのポスター発表を行ったわけである。当日ぞろぞろ多くの人が集まって来て小生の発表ポスター前に陣取った。ポスターには英文で研究方法が書かれているので、それらを当方から説明する必要も無く、しかし横で質問を受けた。横で小生のデーターを中心にしてDiscussionする若い米国研究者達の姿を見てその内容は聞き取れなかったが、雰囲気は大いに感じた。後日彼らの中心のヒトの名前がわかりWaniska、Hamaker、Jackson等いずれも著名な若手研究者で,テキサス州立大学はアメリカのトウモロコシ等の研究で有名な所の若手の研究者達で 今になつて色々雑穀の調査をするとよく彼らの論文が出てくる名前の人たちであった。その中にいたメキシコの女性研究者には翌年のStarch Round Table大会で会う事ができ、昨年は大学へもどってからも小生の話で大変だったとの事を聞いた。
又,帰国後ある方から手紙をいただき,小生のあの蛍光発するデンプン粒の写真をスライドにして送ってほしいとのことであった。すぐに送ったがKansasu州立大学の著名なSeib博士だった。さらにPurdue大学のBeMiller博士から手紙をもらい翌年のStarch Round Table での講演依頼であった。日本では小生の所属する小さな短大ではそこでの仕事は評価されないが,米国ではどこに所属するかは全く関係無く、持っているデーターで評価されるようであった。これが平等だろう。日本の農芸化学会でこのようなデンプン粒表面のタンパク質の存在にして講演したが、事前の小生のアブストラクトを読んで,小生の講演担当の座長が講演の直前に小生のところにやって来て,このような話はしない方がいいよとアドバイスしてくれた事には驚いた。アメリカのオープンな学会ではこのような事はない。自分で暖めたデーターは日本の学会より欧米の学会の方が正面から取り扱ってくれると実感した。
クロリネーションによるデンプン粒の疎水化は,他のデンプン粒(例えば,コーン、イモ、オオムギ、米など)でも同様の処理したが、いずれもレベルの差はあるが親油性を示した。ほぼ表面タンパク質によるものと思われた。さらにクロリネーション小麦デンプン粒の疎水性がホットケーキの組織弾力性どのような関連があるのかを考えた。
デンプン粒表面が疎水的になり、ケーキ組織中には膨剤から発するCO2のガス泡はPS区分と接触する。
ガス泡は表面が疎水的で水にとけずにガス泡として存在する訳であるから、このガス泡は疎水化したPS粒によって包みこまれて泡の安定化の方向に向い、ホットケーキの組織安定化と関連があるだろうと考えた。泡とクロリネーション小麦デンプン粒とを混合した場合、生じる泡は安定化するかどうか。なるべくシンプルな系で証明したいと考えた。泡は水を激しく撹拌すると生じるが直ちに消えてしまう。
泡には起泡剤,気泡安定剤が必要で、この水だけの泡はすぐ消えてしまうので起泡剤が必要になる。鉱石を集める際、主要なものを集めたあと、くずの鉱石が多く出る。これを回収するのにこの鉱石の表面の疎水化を利用して起泡剤(イソアミルアルコール等)を入れて激しく撹拌し、泡をたて、関与しているものは泡に結合させて沈殿させ、くず鉱石を集める事が行われている。これを用いてみよう。
試験管の中にクロール処理デンプン粒と未処理デンプン粒を各々入れ,水を加え、そこにイソアミルアルコールを入れ、激しく撹拌する試験をした。未クロール処理デンプン粒はすぐに泡も消えた。そして試験管中に沈殿したが、他方クロリネーションレベルを揚げるに連れて気泡を安定化して泡は残ってゆく。短時間のうちにその傾向は認められた。写真撮影して写真からアワの高さを測定してクロリネーションの効果を調べた。クロリネーションによってアワは安定化の方向にあった。このクロリネーションによる疎水性デンプンによる泡安定化の傾向は,其の後乾熱処理で得られた疎水性小麦デンプン粒でも同一の傾向が認められた。疎水化が膨化食品の組織安定化に関与している1つの証明と思われた。
さらにクロリネーション小麦粉はこれを酢酸分画法で分画するときにこのデンプン粒の疎水化の影響かとも思われるが,クロリネーションのレベルを上げてゆくと,しだいにPS区分とT区分が同一遠心分離条件で,分離しにくくなる事が観察された。PS区分がT区分に反応して遠心分離しなくなるのであった。これもホットケーキの組織を強固なものにする原因かと思われた。やはり乾熱処理小麦粉でも同じ傾向で,疎水化が強くなるに共なってPS区分とT区分の分離が困難になってゆく。
ホットケーキの弾力性も測定方法は指で一部を押しつけてその指を外した時の戻り具合で判断すると言う官能試験だったが これを何とか数値化したいものだと感じた。
測定法は、オーブンから出してすぐ熱いうちに先ずホットケーキの容積を測定する。続いて重しで全面30秒加圧後,その重しを外して潰れたホットケーキの容積を測定する。焼いた直後のホットケーキとつぶした後のホットケーキの容積の比率(%)を求め,これをこのホットケーキの弾力値とした。こうして測定するとホットケーキの一部を押してホットケーキの弾力性をはかるのとは別に定量化でき,同条件下のホットケーキの弾力性は極めて高い再現性のある事がわかった。以後この方法で処理小麦粉のデーターとした。この辺までが小生が単独で進めた実験であり,森永,三島~京都,聖母短大の仕事であり,これらを論文にした。東北大学から農学博士が与えられた。
Rescue Operations Report - Daiichi Konan Maru (1042)
1. Rescue Location Map
Rescue location: 12 nautical miles southwest of Nomozaki (Latitude 32°24¢N, Longitude 129°38¢E),
near Nagasaki, Japan.
Combat Report - Daiichi Konan Maru (1042)
Captain: Gunzo Seguchi
Date: June 28, 1944
Our vessel departed Takao (Kaohsiung) on June 20, 1944 at 0900 as part of Convoy HO-02,
returning to the Japanese mainland. The convoy, under Navy Captain Nishio aboard the lead ship
Hiyori Maru, included merchant and army transport ships, among them Tamahoko Maru carrying
770 Allied prisoners of war (American, British, Dutch, and Australian) from Jakarta.
On June 24 at 23:55, approximately 12 nautical miles southwest of Nomozaki, a loud explosion was
heard astern. Weather: overcast, calm seas, visibility ~500m. Later orders reported Tainan Maru
had been torpedoed and sunk, and instructed our vessel to proceed to the rescue area by dawn.
We arrived at 05:20 on June 25 and began rescue operations amid oil-covered waters, using
lifeboats where possible. Survivors were picked up from Tainan Maru, Tamahoko Maru, and Ken'ei
Maru. Rescue work completed by 10:15, then we proceeded to Nagasaki to disembark survivors.
Rescue totals by Daiichi Konan Maru:
- Tainan Maru: 197 survivors
- Tamahoko Maru: 474 survivors (including 211 Allied POWs)
- Ken'ei Maru: 28 survivors
Total rescued: 699 persons
It is believed that Escort Ship No.20 also rescued ~100 more. The attached list records notable
rescuers.
Reported respectfully,
Captain Gunzo Seguchi
The Tamahoko Maru Incident
The Japanese cargo-passenger ship Tamahoko Maru was used during WWII as a so-called "hell
ship" to transport large numbers of Allied prisoners of war under harsh conditions. On June 3, 1944,
she departed Singapore as part of Convoy HO-02, carrying over 900 people, including
approximately 772 Allied POWs:
- United Kingdom: 197
- United States: 42
- Australia: 258
- Netherlands: 281
On June 24, 1944, at approximately 32°24¢N, 129°38¢E (12 nautical miles SW of Nomozaki), the
ship was torpedoed by USS Tang and sank within two minutes. Around 560 POWs perished. The
next morning, 212 surviving POWs were rescued--474 total survivors were picked up by the Daiichi
Konan Maru, along with Japanese crew and military personnel. These POWs were later transferred
to Fukuoka No.14 POW Camp in Japan. Captain Gunzo Seguchi Daiichi Konan Maru (1042)
図1
図2 図3
シア(SHEA)







ルルドの思い出;
2015年6月、フランス、パリで 6th International Fibre Conference 2015の国際会議があり、"Effects of size of cellulose granules on dough rheology, microscope, and bread-making properties" のタイトルで発表しました。大阪11時25分発、シャルル・ドゴール空港16時45分着、所要時間12時間30分の長旅でした。6/2の私の発表は18時からでした。終了後の翌日、ルルドまで足を伸ばしました。ホテルからタクシーで25分ほどのモンパルナス駅まで行きました。6時25分モンパルナス駅発、ルルド10 時25分着TGV 8571の二等車に乗りパリから5時間、広いフランスの田園風景を見ながらそのうちピレネー山脈の山中にどんどん入ってゆきたどり着いた宗教の町でした。ルルドはカトリックの聖地であり、ここで1800年代にベルナデッタが聖母マリアのお告げを受けたところです。ベルナデッタは殆ど文盲のような女の子で教会の雑用係でした。しかし信心深く、マリアをしたってルルドの水脈の流れ出る洞窟の中で毎日祈りを捧げていた様です。ある日、いつもの様にその洞窟でマリアを祈っていると、そこに薄いブルーの帯をしたマリアが出現したのです。ベルナデッタはマリアに問いかけ、大きな感動を受けました。ベルナデッタは急いで教会に戻り、その様子を包み隠さず周囲のシスター方へ報告しました。しかし殆ど相手にされなかったようです。こんな事が幾度かあったようです。その後、たびたびのマリアの出現に、周囲もベルナデッタにマリア像を見るようになっていったのでしょう。ルルドには大きな病院が幾つかあり、多くの患者が療養していました。広場で行われる夜のミサなどには若いボランテイアが大きなベッドに患者をのせ、ミサ聖祭に参加していました。ベルナデッタがマリアと会った洞窟の壁からは水が染み出ています。この水は奇跡の水で有名でした。多くのヒトがそれを飲んだり、身を清めたりして病気回復を祈ってました。ノーベル賞受賞医、アレクシー・カレルはこのルルドで多くの奇跡を見ています。カレルによるルルドの医学事務局報告は、以下のように述べています。「治る過程は一人一人ほとんど同じである。多くは鋭い痛みがある。そして突然、治ったという感じを持つ。解剖学的な損傷の疫痕化する速度が普通の場合よりずっと早い事は確かである。この現象が起こるのにかかせない条件としては、祈りがあるだけである。その病人のまわりの誰かが祈りの状態になるだけで十分である。奇跡の主な特徴は、器官が回復する過程が極めて迅速な事である」と。このようにして奇跡がおこるのです。ルルドを訪ねることで、祈るという行為は何かしら人間に与えられた重要な行為と感じられました。こうしてベルナデッタの住まい、洞窟、マリア像などを見ることができました。聖水瓶を4個買い、満水にして持ち帰りました。さて帰国、6月4日ルルド発LD、7時発パリ行き飛行機に乗らねばなりません。朝4時半ホテルの事務所に降りてチェックアウトです。真っ暗な中、ホテル親父さんも降りてきて、彼に鍵を返すことができ、タクシーを呼んでもらいました。その間、彼はなんと私のためにコーヒーとパンを出してくれました。タクシーはまだ誰もいない空港につき、6時ごろやっとチケットをもらいました。7時12分フライト中、ピレネー山脈に雪が被っているのが見えました。パリではオルリー空港よりドゴール空港まで行かねばなりません。ドゴール空港は広くてわかりにくく、マシンガンを持つ兵士からパスポートを見せろなどとと言われました。6/5、 8時35分大阪に帰りました。
補聴器を使い始める。
今から数十年前、高校の同窓会の席で、ある年配の先輩が補聴器について語っていた言葉が、今も印象深く記憶に残っている。「補聴器は素晴らしい。今までよく聞き取れなかった家族の会話や孫の言葉が、はっきりと聞こえるようになり、会話も弾むようになった。もし不便を感じているなら、補聴器の使用をぜひ勧めたい。」
当時の私は、自分にはまだそのような不便はない、遠い世界の話だった。しかし、年月が流れ、今や私がその先輩と同じ立場になった。ふと、そのときの先輩の言葉が思い出され、「あれは先輩の体から出た本当の話だったのだ」と、今度小生が「今誰かお困りの人がいればご参考に」と、こうして筆を執っている次第である。ここで強調したいのは、補聴器は眼鏡と同様に、生活に欠かせない必需品であるということである。
私が難聴を感じ始めたのは、神戸女子大学教員時代のことでした。米国のある女性歌手の非常に高音域の歌声に魅了され、大学須磨学舎の研究室から宿舎までの徒歩帰りみち30分間、連日高音で、イヤホンで聴いていたことがあった。その頃から耳の高音部の耳細胞が破壊された感覚があった。また、同じ時期、50名クラスの講義ではマイクを使わずに大声で学生に話していたため、これも耳に負担をかけた要因だったと思う。当時、講義前にめいめいの学生の氏名を呼び、出席をとっていたが、その際の学生からの返答がよく聞き取れず、「先生は、うまく聞こえてない」と冗談めかして言われたこともあった。親父も年をとってから似たような難聴だったが、会社では「都合の悪いことは聞こえないから、難聴もそれほど悪いものではない」と言っていた記憶がある。ある友人も「自分が中心の大学の会議では、重要な話が聞き取れないというわけにはいかない。補聴器を使っている。なかなかいいよ。」と小生にも是非と勧めてくれていた。値段が高いのでびっくりした。「そのうち技術が進んで、もっと安価で良い補聴器が出てくるだろう。新聞広告に載っているような廉価な製品も、いずれ洗練されてくるだろう」と期待していた。
退職後、自宅にいることが多くなり、人との交流も次第に減ってきた。そのため、耳の衰えもあまり気にならなくなっていた。ところが、テレビや映画を見る際、字幕がないと日本語のストーリーですら分かりづらくなってきた。また、孫たちが遊びに来たとき、孫同士が「じいじの耳は聞こえてないみたいだね」と言ってくすくす笑い合っているのを見て、「これはいけないな」と感じるようになった。ある会議で議長からの質問が聞き取れず、内容がよく分からないまま答えてしまった。後でとても不安になった。しかし、こうした経験が重なり、「やはりそろそろ補聴器が必要かもしれない」と思うようになった。友人のアドバイスもあり、補聴器購入することにした。
そこで、近くの耳鼻咽喉科(病院名、グリーンハウス)を受診した。病院では聴力検査を受け、高音域と低音域の聞こえ具合を調べてもらった。低音域は両耳とも正常でしたが、高音域が聞き取りにくい状態だった。その検査結果を持って、補聴器専門店、トーシン補聴器センター・京都(京都二条)を訪ねた。店内は、高齢の男性や女性が来店していた。
個室に案内され、さまざまなテストを受けた。中には、音が聞こえたときにスイッチを押すものや、言葉を正確に聞き取れるかどうかを調べるものなど、非常に細かい検査も含まれていた。レシーバーを使ったテストも行われ、内容は丁寧かつ納得のいくものだった。それらの結果ををベースにして各個人に合う補聴器を作るのである。耳の中にスポッと入れるのが良さそうということから型取りをした。何やら柔軟なものを耳に入れ型取りをし、その中に中心部の機器が埋め込間れていた。違和感があり、数回削るなどして、耳に合わせた。音の高低をセットしてくれ、あとはスマートフォンスで自分で高低、感度等左右で調整できるようになっていた。やはり高波長側を調整してくれ、補聴器を耳に入れた途端に聞こえるようになったのには驚いた。ストレッチ体操に通っているのが、インストラクターの先生の言葉が聞き取りにくかったのが、すべて聞き取ることができたのには驚いた。
脳の方がだいぶんいい加減な音に慣れているので、この補聴器をセットして3ヶ月から6ヶ月は聴き続けろということだろう。初め金属音なども入ってきたが知らないうちに気にならなくなり、元のまともな音に戻った感じがした。難聴が気になったらこれをトライする必要がある。これで外部とのやりとりも気にならなくなる。難聴の脳は十分に変化するには3ヶ月程度続けることが必要で途中でやめてしまうと、脳が変化していかないとのことである。
言われるままに補聴器を購入し、はや3月にもなろうか。5月26日から本格的に耳に入れスタートすると、本日7月13日でまだ2ヶ月半か。夜中には補聴器を外して充電し、翌朝6時には起きてテレビをつけ、ニュースを見るとアナウンサーの声は遠くで聞こえる。はっとして補聴器を充電器から取り出して、まず右の耳に入れると高音が耳に入り、左の耳にもそれだけで何やら音が入る。両耳にしっかり入れると、テレビのアナウンサーの声ははっきり以前にのように完全に聞こえ、これまで高音が独立に耳に入っていたが、その単独の音が消えてそれ以外の音と合致してきた。両耳にタイミングよく高音が入りアナウンサーの声が落ち着いて全て聞き取れるようになる。高音がなくて言葉が聞き取れてなかったのである。それを3ヶ月まで出ていないが次第に聞こえるようになったと感じる。急にではなく、次第次第に気がついたら聞こえているような気がする。脳の方が馬鹿なのが、やがてそれがまともに働いてくれるまで時間がかかるのだろうか。やはり時間はかかるが効果的である。この補助器は必需品となっている。脳の機能の仕方を教えてくれる。
「忘れられたアフリカの野菜」INTRODUCTION
INTRODUCTION
飢餓に苦しむ大陸では、利用可能なすべての食用植物を最大限に利用すると思われがちだが、アフリカの場合はそうではない。サハラ砂漠以南の地域には、食糧供給に貢献する何百もの植物があるが、現在、科学的な支援や公式な促進、開発計画への組み入れが行われているものはほとんどない。
当初、アフリカの食物は人類を養っていた。アフリカから外へ出た初期の人々は、農耕が始まるずっと以前から、旅先で新しい食べ物を見つけていた。しかし、国内では、農耕がますます多くの場所で食糧を大量に供給するために最も実用的な植物に関心を向けるようになり、農業の多様性は縮小していった。それでもなお、何千年もの間、何百種類もの野生種と(やがて)栽培されるようになった在来種が互いに補い合い、大陸の食糧供給の中核を構成していた。
その後、歴史に記録される前に、いくつかのアジア産の食品がアフリカの食物連鎖の新たな輪となるべく、西へと向かうという極めて重要な植物の移動が始まった(ソルガムきびなどはアフリカからの往復ルート)。それらは、一部、インドとアフリカの東海岸との間の貿易の増加や、そして陸路同様、おそらくはマダガスカルと現在のインドネシアとの間の驚くべき長距離輸送によってもたらされた。アジアからの外来種、特に米、バナナ(様々な形)、サトウキビは、サハラ砂漠以南の生活にますます貢献するようになった。
しかし、アフリカ人の多くは、約5世紀前、西海岸を航海していた冒険家や奴隷商人たちがアメリカの作物を導入するまで、伝統的な食用植物に頼っていた。トウモロコシ、キャッサバ、落花生、サツマイモ、トマト、インゲンマメ、唐辛子、カボチャなどである。外来植物にありがちなことだが、新しく入ってきた植物はたくましく生産的に成長する傾向があり、その後何世紀にもわたって、農民が昔からの生計戦略にこれらの有用な補助植物を組み入れるにつれて、アフリカ全土に広がっていった。それは必然的に、伝統的な貢献植物の多くが食糧供給から遠ざかり、最小化のプロセスが進むことを意味した。
植民地時代には、サトウキビ、チョコレート、コーヒー、綿花、その他耐久性があり、輸送可能で、価値のある作物など、商取引に関心のある身近な作物に公式の焦点が移ったため、在来作物の廃棄の動きはさらに加速した。実際、当時、組織化された農業では、自給作物はほとんど無視され、輸出可能な貴重な換金作物は、栽培、収穫、等級付け、ネズミ、昆虫、腐敗からの保護が、並外れた方法で行われていた。このような歴史的傾向の最終的な結果として、今日、アフリカの食料のほとんどは、わずか20種ほどの、ほとんどすべてが外国産のものからもたらされている。
穀物や果物と同様、アフリカの古代野菜もこうした出来事の影響を受けやすかった。大昔は、何百種類もの葉、根、塊茎、球根、種子、芽、茎、さや、花が食べられていた。しかし、今日アフリカ全土で主要な野菜は、サツマイモ、調理用バナナ(プランテーン)、キャッサバ、ピーナッツ、インゲンマメ、ピーマン、ナス、キュウリなどの作物である。ブルンジ、ルワンダ、エチオピア、ケニアといった中央高地の国々はジャガイモを栽培している。ルワンダではバナナが主流で、エチオピアもひよこ豆とレンズ豆に頼っている。南アフリカでは、ジャガイモ、トマト、グリーンミールス(トウモロコシ)、スイートコーン、タマネギ、カボチャ、ニンジン、キャベツ、レタス、ビートルートが主要な野菜作物として記録されている。
このような現代の列挙の断絶は、これらの「アフリカ産」野菜がアジアやアメリカ大陸から来たものだということだ。実際、アフリカの野菜に関する一般的な教科書には約100種が掲載されているが、そのうち自生しているのはわずか3種だ。現在のアフリカ大陸のトップ野菜のうち、アフリカ産はササゲ、ヤムイモ、オクラだけである。
このような状況は、それ自体、大きな弊害ではない。結局のところ、アメリカはサハラ以南のアフリカの人口のほぼ半分を擁し、現地の食用植物をまったく食べていないのだ。アメリカ国内で自生している食用作物は、ヒマワリ、エルサレム・アーティチョーク、コンコード・グレープ、ピーカン、クランベリー、そしてブルーベリーやラズベリーなどの小さな果物など、貢献度の低いものばかりである。そして、生物学的に豊富な在来の食用植物を奪われているアメリカとは異なり、アフリカには何百もの価値ある候補が控えているという恵まれた環境もある。それは、歴史の過程で、十分な功績がなかったからではなく、過去の時代の怠慢や優先順位によって、もはや関連性のない理由で食糧供給から外された古いものである。
このような歴史から学ぶべきことがある。今日、最も重要な食品の多くが、過去には 「貧乏人の作物 」と見なされて見過ごされていた。ピーナッツ、ジャガイモ、その他多くの一流作物は、かつてこのような差別を受けていた。アメリカでは1世紀あまり前まで、ピーナッツは 「単なる奴隷の食べ物 」と蔑まれていたし、1600年代にはイギリス人が 「アイルランドの食べ物 」という理由でジャガイモを食べることを拒否していた。貧しい人々が栽培する作物は通常、丈夫で生産性が高く、自立的で有用である。
アフリカの作物資源のルネッサンスへの扉は今、確かに開かれている。しかし悲しいことに、現代においても、このような歴史的な排斥傾向は続いている。伝統的な種と外来種の間の不均衡は、すでに憂慮すべきものであったが、さらに他人の作物に大きく傾き続けている。より正確には、何万年もの間、アフリカの人々を食べさせてきた伝統的な野菜の利用や、それに対する感謝の念に反しているのだ。科学が一流の資源をより良いものにする一方で、そうでない資源は後塵を拝し、絶滅はしないまでも、大半のその料理は無名先に追いやられている。つまり、アフリカ独自の食材の大半は、まだ十分に注目されておらず、ましてや近代的な能力に内在する力と可能性のもとで、絶滅こそしてないがその料理の大部分のものは隠されて潜在能力を開花させるチャンスもないのだ。このことはアフリカ自身の持つ自らの食物の大部分はまだ関心は持たれてが、現在の固有の力と約束の持つ可能性の発掘を放置している。
ライフスタイルの地球的均質化は完全には伝統的な野菜の締め出しには非難してないが、それは現代の関連と富はまたどの進んだ市場でも新しい食品利用を無視しているためである。しかしかなりの程度この無視は、研究の進んだ地域では農業成功上の意図された結果の様である。そして不自然ではなく、アメリカ、ヨーロッパ、アジア、その他の人々は野菜におけるアフリカの未来を彼ら自身のものと見ている。こうして、大豆やその他の作物が研究のスポットライトを浴び、食糧や現金の生産量としてますます大きなレベルに達し、それによってさらに多くの研究支援が正当化されるように見えるのである。
このような科学的スパイラルの一端は、現在大豆に費やされている研究の量から推測することができる。それに比べれば、アフリカのヤマイモやオクラは全くと言っていいほど支援を受けていない。おそらくアフリカの野菜の中で最も資金援助を受けているであろうササゲでさえ、大豆には遠く及ばない。そして、これら3つ(ササゲ、ヤムイモ、オクラ)の 「目に見える 」アフリカ野菜の先には、世界の主要な野菜研究機関でも名前が知られておらず、結果として支援も受けられずに放置されている 「目に見えない 」膨大な数の野菜がある。このような 「失われた 」アフリカ作物の可能性を示す皮肉なことに、大豆は100年前にはアジア以外ではほとんど知られていなかったにもかかわらず、短期間のうちに世界的に重要な作物となった。
はっきり言って、大豆がアフリカに利益をもたらす可能性がある限り、研究支援は非常に良いことである。農作物における競争は、商業における競争と同様に健全なものであり、常に敗者が存在する。しかし、これほど広大で多様な大陸に食糧を供給するには、より多くの、より適応性の高い食用作物が必要である。アフリカ人がアジア、ヨーロッパ、アメリカを発見するはるか以前から人々を養ってきた古くからある野菜は、アフリカの将来の選択肢に含まれるはずだ。
現代作物の古代のストックと比較すれば、科学の枠外に残されたこれらの伝統的なアフリカの食用作物は、本質的に劣っているから拒否されたわけではない。今こそ、この土着の食用作物の力と可能性に心を開く時なのだ。先祖代々の野菜がアフリカの食糧供給の最前線に立つべきだというわけではない。その価値を現代に伝えるチャンスである。その多くが今日重要な貢献をしており、やがては(その価値が認められれば)、十分な食糧を持つ大陸へと続く道を歩むかもしれない。
今こそ、食用植物の豊かさに期待するアフリカの未来を探るチャンスなのだ。昨今、研究者たちは遺伝子工学とそこから生まれる新製品に熱中している。この新たなテクノロジーはアフリカにとって有望であるが、その熱意が、膨大な数の自然界の生物が、すでに人間によって選択され、改良されているにもかかわらず、何十年にもわたって世界の食糧生産を改善し、ほとんど奇跡的であることを証明してきた「伝統的な」科学的手法によって、まだ探求されていないという事実をあいまいにしてはならない。あまり知られていない地元の植物の中には、アフリカの、そして言うまでもなく世界の最も差し迫った食糧問題の解決に役立つような、非常に優れた遺伝的構成を持つものがあるかもしれない。
それ以上に、アフリカ独自の食用植物の開発が活性化すれば、農業従事者が通常想像する以上の新たな機会の窓が開かれる可能性がある。原理的には、これらの国産植物は、増加する人口を養うだけでなく、限界地の生産性を高め、農村の所得を向上させ、荒れ果てた地域を再び覆い隠すことができる。さらに、大陸の農業資源の裾野を広げ、より安定した、より安全な食糧供給を実現することもできる。害虫や病気の被害を食い止める遺伝子は、すでに利用可能かもしれない。実際、この試みはそれ以上に、アフリカ独自の食用植物の開発が活性化すれば、農業従事者が通常想像する以上の新たな機会の窓が開かれる可能性がある。原理的には、これらの国産植物は、増加する人口を養うだけでなく、限界地の生産性を高め、農村の所得を向上させ、荒れ果てた地域を再び覆うことができる。さらに、大陸の農業資源の裾野を広げ、より安定した、より安全な食糧供給を実現することもできる。害虫や病気の被害を食い止める遺伝子は、すでに利用可能かもしれない。実際、この試みは、アフリカで十分に活用されていない農業科学の使命として理想的だと思われる。
しかし、どの在来野菜からその再生プロセスを始めるべきなのだろうか?記憶にある限りでも、アフリカ人は驚くほど多くの種類の植物を食べていた。ある作家は、現在のジンバブエだけで83種が野菜として使われていたことを挙げている。南アフリカのある小さな地域では、最近まで120種以上が一般的な野菜だった。19世紀から20世紀にかけて、西アフリカで日常的に食べられていた何百種類もの植物について、(主に学者を対象にした)大規模な本が英語とフランス語で書かれた。ナミビアとボツワナの乾燥地帯でさえ、環境の極端さが選択肢を狭めているが、ある観察者は、カリハリのまぶしい中心部で伝統的な文化によって食べられている18種の野菜のような植物を挙げている。
アフリカ原産の3,000種類の根、茎、塊茎、葉、葉柄、球根、未熟花序、果実野菜が日常的に食べられていたことは考えられる。しかし、何が食べられ、何が食べられないかという知識は、一般に母から娘へ、そして子から子へと世代を超えて受け継がれてきた。このような直接的、個人的、現場的な教育は効果的であったが、今日それを利用することは困難を伴う。知識の一部は記録されているものの、悲しいことに、その経験の多くは集団の記憶から薄れてしまっている。ある種が食べられていたことを知っているだけでは、想像しているほど役には立たないし、現在では、遺伝子プール全体から、過去に唯一利用されていた特に口に合う標本を探し出すのは難しいかもしれない。
しかし、すべてが失われたわけではない。多くの土着食物は、今日でもアフリカ全土で広く愛されている。中には、再び研究者の関心を集めているものさえある。少数の画期的な生産者や独創的な研究者が、こうした古代の資源に興味をそそられている。実際、アフリカ全土の植物愛好家たちは、これらの先祖伝来の食品に注意を払えば、今日の教科書や科学論文、そして一流の野菜とはどうあるべきかという国際的なイメージを支配する現代的な驚異と肩を並べることができると考えている。
食料基盤を多様化させる重要な機会を提供するだけでなく、伝統的な作物は、地元の感情は言うに及ばず、地元主導に適している。アフリカの研究者や生産者は、こうした古くからの資源を再活性化させるための先頭に立つことができるだろう。また、植物育種、遺伝学、さらにはゲノミクスの進歩は、歴史的な前例から想像されるよりもはるかに早く、こうした古くから放置されてきた資源を変貌させるであろうことも注目に値する。一般的に、作物の潜在能力を引き出すために何世紀も投資する必要はもはやない。少しでも注目と支援があれば、アフリカの果物や野菜は、環境、栄養、経済、そして個人所得(特に女性の所得)において、アフリカの多くの国々(ほとんどではないにせよ)のさらなる貢献が期待できる。
それなら、現在の商業作物の先を超えて、補完的な候補作物を開発する良い機会である。それはすでに「ポスト産業社会」の国々で起こっている。そこでは20年前には見られなかった野菜の宝庫が市場に溢れている。アフリカにとって、自国の 「失われた 」種は、今日とその先のニーズを満たすために、同じ賢明な多様化のプロセスを開始する明らかな場所である。
OKURA (オクラ)II
薬用 東洋では古くから、痛みを和らげるために葉や未成熟の果実を湿布に使ってきた。
栄養
オクラは主食というよりはダイエット食である。オクラの実は低カロリー(100gあたり20g以下)で、脂肪はほとんどなく、食物繊維が豊富である。ビタミンCは推奨量の約30%(16~20mg)、葉酸は10~20%(46~88
園芸
今日、オクラのほとんどは、小規模農園や裏庭の庭、時には都市近郊のトラック農場で、他の作物と混植されている。大規模な商業畑で単独で栽培されているのはごく一部である。ほとんどは直播である。種皮が厚いため、発芽を良くするために、まず種子を一晩浸す。苗はまた苗床から移植する。良好な発芽と生育のためには、暖かい気温が必要である。オクラは綿花と同じような温度を必要とする。米国の商業用オクラは、1ヘクタール当たり2万本から3万本で栽培されている。
病害虫が比較的少なく、手入れも最小限で済む。ただし、米国南部では、バーティシリウム病やフザリウム病が発生することがあり、アブラムシ、コーンイヤーワーム、カメムシが主な害虫となることがある。
収穫と取り扱い
開花は植え付けから約2ヶ月後に始まる。その後、花は急速にさやへと成長し、通常、花が咲いてから3~6日後に収穫される。この段階で収穫されたサヤは柔らかく、風味が良く、半分ほど成長した状態である。株に残ったものはすぐに繊維質になり、かたくなる。
適切な圃場管理により、連続開花と高収量を維持することができる。30~40日の収穫期間で、1ヘクタール当たり500kg(1株当たり0.5kg)に迫る収量が得られることもある。オクラは通常、少なくとも週に3回収穫される。サヤは呼吸率が高いので、素早く冷やす必要がある。状態の良いものは、7~10℃で7~10日間、十分に日持ちする。90~95%の相対湿度が萎凋を防ぐのに役立つ。
図5
制限
野菜とオクラの栽培で最も重要なのは、サヤを正しく収穫し、数日おきに定期的に収穫することである。そうすることで収穫量が増え、収量も大幅に増える。
新鮮なオクラのさやは傷つきやすく、数時間で黒くなります。また、冷やさずに24時間以上置いておくと、白化タイプの傷がつくこともある。
あるオクラの株やさやには小さなトゲがあり、これにアレルギーを持つ人もいる。収穫すると、腕がかゆくなることがある。
次のステップ
地球上のあらゆる有用植物の中で、オクラは最も誤解されている植物のひとつである。総合的に見れば、この植物はひとつの植物が夢見るほど多くの生産の可能性を提供している。しかし、この植物もまた、精神的なワープから抜け出せないでいる。十数人の研究者が一生生産し続けられるだけの可能性を秘めているにもかかわらず、現在、真剣に開発している研究者はほとんどいない。
産業開発
東アジアの竹や籐のように、さまざまな可能性を秘めたこの種を中心に、いくつかの農村産業が構築されるかもしれない。オクラはこのように、小規模生産者にとっても大規模生産者にとっても、多くの国々で繁栄への道が開かれている。いくつかの選択肢を紹介しよう。
油糧種子 オクラが油糧種子としてどのような将来性を持つかは誰にもわからないが、少なくとも一見したところ、かなり大きな可能性を秘めている。オクラの油は、溶剤または機械式圧搾機で簡単に抽出できる。緑がかった黄色で、不快な臭いはない。種子を収穫する機械も開発されており、綿実用に設計された機械で油を抽出することができる。
今必要なのは、数十年前に発表されて以来見過ごされてきたプエルトリコでの研究に対する大規模なフォローアップである。これは植物油とタンパク質を購入する化学者、食品技術者、産業界によって近代的評価のためのオクラ種子油脂とタンパク質サンプルの充分な収量のための試験プランの始まりとなろう。オクラの種子油とオクラの種子タンパク質がこれまで大量に生産されたことがないことを考えると、これは大きな事業だが、世界の温暖な地域に新しい農業産業の扉を開くことになるかもしれない。
粘液 表面的には、オクラの粘液が、現在サイリウム、亜麻仁、アロエベラを採用している産業に供給する役割を果たせない理由はないように思われる。しかし、確認が必要である。 解明が必要な問題は、オクラ製品の性能、安全性、価格帯などである。繰り返しになるが、生産者や研究者は、化学者、食品技術者、粘液性物質を購入する企業による評価のために十分な量を生産する必要がある。ここでもまた、多くの土地に広大な新産業の可能性を開く可能性がある。
紙パルプ すでにオクラを栽培している読者なら誰でも、私たちが本当にオクラという植物を知っているのか疑問に思っているかもしれない。しかしそれは、野菜用として栽培されているのは特別に品種改良された矮性種であり、一般的に高さは1メートルにも満たないため、製紙や燃料、パーティクルボードにはきっと不適切だからにほかならない。しかし、この種の膨大な生物多様性の中には、茎が5メートルもあり、小さな木のような「幹」を持つアフリカの品種もある(直径10センチまで)。少なくとも原理的には、それらはさや、種子、葉を収穫し、後に繊維や燃料用に伐採することができる。品種によっては多年草の性質を持つものもある。サトウキビで使われるラトゥーニングのように、複数年にわたる生産が可能なため、2回目の植え付けにかかる費用や手間、遅れを省くことができる。 1979年までさかのぼると、J. L. Siemonsmaがコートジボワール産の2種類のオクラを記載し、ほぼ多年生種が存在することに注目した。
温帯の夏、この背の高い強健な西アフリカのオクラのほとんどは、種子をつけるには遅すぎる時期に花を咲かせる。その代わりに、彼らは栄養成長にかなりのエネルギーを注ぎます。繊維やバイオマスの生産において、園芸品種をはるかにしのぎ、オクラの育種と世界的資源としてのオクラを活性化させる可能性を秘めている。
これらの背の高いタイプを入手し、世界的な試験にかけるべきである。ケナフとの比較試験も行うべきである。
写真 6
生体吸収剤 これまで述べてきたように、髄は茎の大部分を占める。ケナフでは、動物用敷料、吸油剤、鶏糞、猫砂、鉢植え用土に適していることが証明されている。オクラの髄のサンプルを集め、ケナフと比較する必要がある。これらの目的では、この2つの作物は競合関係にはない。この2つの作物は間違いなく一緒に市場に出すことができ、おそらくは混合することで、より大きく、より広く、より安全な供給基盤を築くことができる。このような生物吸着剤の需要は、環境衛生と公衆衛生の両方のニーズから、世界中で急増する可能性が高い。
園芸開発 オクラの選抜と育種はかなり行われてきたが、未熟なさやの生産に重点が置かれてきた。この種の中にある素晴らしい遺伝的多様性の残りの部分は、基本的に未開拓であり、あるいは未開拓ですらある。この状況を早急に変えるべきである。アフリカだけでなく、アジアやこの作物を知る他の地域でも、生殖質を集める必要がある。
このような遺伝的多様性を手にすれば、様々な別個の生産物に対する作物の成分的価値を向上させる道が開かれるはずである。例えば、繊維、バイオマス、油、タンパク質、粘液(種類と収量)、色、観賞用などの品種を育成することができる。育種研究は、収量、栽培条件、栄養価、栄養補助食品の改善にも拡大できる。
オクラの花は昆虫受粉(ハチ、スズメバチ、ハエ、カブトムシ、そして時には鳥も)しやすい構造になっているが、通常は自家受粉が行われ、手作業による受粉も種子の取り扱いも簡単である。従って、育種をコントロールすることは難しいことではないが、いくつかの特徴を引き出すことに成功するには、非常に大規模な個体群や非常に慎重な評価が必要になるかもしれない。
毒性チェック オクラの豆腐も、油を抽出した後に残るタンパク質が豊富な残渣も、有望な食品や飼料となるが、欠点も考えられる。オクラの種子には、綿実と同様、ゴシポールまたはゴシポールに似た化合物が含まれていると言われている。不思議なことに、もしゴシポールが商業的な量で存在すれば、長い間待ち望まれていた男性用避妊薬(サイドバー参照)に利用できるかもしれない。 ゴシポールは綿実油にも含まれ、ブタノールで抽出される。
少なくともいくつかのオクラシード品種では、オイルに少量のシクロプロペノイド脂肪酸が含まれている。これらの不安定な化合物には、強い抗炎症作用がある。生理的な影響があり、鶏では産卵を抑制すると考えられている。しかし、オクラの株によってはその量が少ない(全体の範囲は0.26~5.59%)ことから、この問題は品種改良で解決できる可能性がある。これらの珍しい脂肪酸は、油を加工する際に加熱すれば簡単に除去できるが、最初から何もない方が良いに決まっている。
基礎研究 植物の生理学的、遺伝学的特徴には、調査すべき魅力的なものがたくさんあることは間違いない。思いつくものを3つ挙げてみよう:
- 倍数体 オクラは染色体の数が多く(2n=130)、2倍体の場合もあれば4倍体の場合もある。あるゲノムはAbelmoschus tuberculatus(2n=58)に由来すると考えられている。現代の技術では、オクラの遺伝的背景や染色体の構成を解明することが可能であろう。
- 交配 オクラの近縁種であり、興味深く有用なアンブレット(Abelmoschus moschatus)、ケナフ(Kenaf)、ローゼル(Hibiscus sabdariffa)との交配の可能性だけでなく、種内での交配は、卓越した特性を持つ魅力的な植物を提供する可能性がある。
- オクラの原産地 オクラの原産地について、多くの出版物はいまだにインドとしているが、これは科学的な評価というよりも、現在の用法に近いと思われる。アフリカ(特にエチオピア)に原種や野生近縁種が多数存在することから、オクラがアフリカ原産であることはほぼ間違いないが、基礎調査やDNA検査によって、長引く疑念は払拭されるはずである。
食品技術
ここにも魅力的な研究の可能性がある。例えば以下のようなものだ:
- オクラ・ティー オクラの近縁種であるローゼルは近年、ノンカフェインの紅茶の主原料として有名になっている(特に米国では、人気の高いレッド・ジンジャー・ティー®の主役となっている)。ジャマイカの人々は、このオクラの親戚をソレルと呼び、島の名物のひとつと考えている。また、食物繊維とビタミンCを摂取するために導入されたサヘル地方では一般的なお茶であり、今では帰化している。赤い萼を持つオクラが知られており、対になるものが生産される可能性を検証する必要がある。
- カフェインレスコーヒー オクラの種は、本当においしいノンカフェイン飲料に直接つながるのだろうか?その可能性は、少なくとも一見の価値がある。
- ガム・フリー・オクラ 粘液質の含有量を調べる簡単なテストも必要であり、それによって胚珠を選別することができる。そうすれば、多糖類の含有量がわかっているサヤを育種することができる。ガムのないオクラを作れば、世界に主要な新しい作物を提供することになる。もちろんガムが豊富なオクラは、例外的に世界に新しい主要作物をもたらすだろう。
進展と広報 オクラは潜在的に非常に重要な植物であるにもかかわらず、その開発にはほとんど努力が払われていない。前述したように、これは一般大衆の否定的な考え方によるところが大きい。人々の反感を克服するには、科学だけでなく、広報活動が必要である。オクラ鑑賞協会のようなものがあれば、この野菜を後押しすることができるだろう。オクラの可能性を新聞や雑誌に取り上げてもらう。そして、コンテスト、レシピ、家庭科講座、栄養啓発のデモンストレーションなどを運営することもできるだろう。オクラの将来性は高いが、その未来は、この作物の大きな可能性に対して、まだ誰もが目を奪われているスライム(不快な粘り)から脱却するための精神的な軌道修正にかかっている。
品種情報
植物名 Abelmoschus esculentus (L.)
同意語 Hibiscus esculentus L.
アカザ科
一般名
アラビア語: バミア、バミヤ、バミエ
英語: okro, lady's finger, ladies finger, gumbo
インド:ビンディ、ビンディ、デラス、バンダカイ、ベンダカイ
中国語:Ka fei huang kui、Huang su kui、Huang qiu kui、qiu kui
(薬用名); chan qie, ch'aan k'e, Ts'au kw'ai (広東語) フランス語: gombo, bamie-okra, ketmie comestible, ambrette
ドイツ語:オッカー
スペイン語:gombo, ají turco, quimbombo, ocra
ポルトガル語:gumbro、quingombo、quiabo、quillobo アカン語(トウィ語):nkruman、nkruma(オクラ)
バンツー語:キ・ンゴンボ、ンゴンボ、ゴンボ
コンゴ、アンゴラ:キヨボ、キ・ンゴンボ
スワヒリ語:ガンボ
タイ語: krachiap khieo
バンツー語:ki ngombo、ngumbo、gombo
コンゴ、アンゴラ:キロンボ、キ・ンゴンボ
スワヒリ語:ガンボ
タイ語: krachiap khieo、krachiap mon、bakhua mun
ギリシャ語:バミア
ヘブライ語:バミヤ、ハイビスカス・ネシャル
ハンガリー語: gombó, bámia
イタリア語:gombo、ocra、bammia d'egitto、corna di greci
日本語:おくら、あめりかねり、きくいも
マレーシア:ベンディ、カチャン・ベンディ、カチャン・レンダー、サユール・ベンディ、カチャン・レンディール、カチャン・レンディール
lendir , kachang bendi インドネシア: kopi arab.
概要
オクラは一年草で、通常高さ2mに達するが、アフリカの品種では5mに達するものもあり直径10cmの茎をもつ。
葉はハート型で裂け目があり、茎は長く、太い木質茎に付いている。葉の長さは30cmに達することもあり、一般に毛深い。花は葉腋に単生し、通常黄色で基部は暗赤色か紫色。アフリカの品種の中には光周期に敏感なものがあり、温帯では晩秋にのみ開花する。受粉はほとんど自家受粉だが、一部異種交配が報告されており、しばしばミツバチが訪れる。
さや(蒴果)は長さ10~25センチ(矮性品種では短い)。一般にざらつきがあり丸く、色は黄色から赤、緑と様々。果頂は尖り、基部には毛が生え、先端に向かって細くなっている。たくさんの楕円形の種子を含み、サイズはこしょうの実ほどで、未熟なものは白色で、成熟すると暗緑色から灰黒色になる。
分布
適応性に優れ、熱帯、亜熱帯、温帯に広く分布する。要するに、誰もが植えようとすれば、ほとんどどこでも育つ。
アフリカ内 自生している食用作物の中で最も広く栽培されている作物のひとつである。モーリタニアからモーリシャスまで知られているが、最も多様性があるのはエチオピアとスーダン周辺である。
アフリカ以外 南ヨーロッパ、オーストラレーシア、熱帯アジア、アメリカ、カリブ海諸国、アメリカで栽培されており、アメリカ南部で最もよく知られているが、オレゴン州やカリフォルニア州でも栽培されている。トルコでは大規模にオクラが栽培されている。
園芸品種
地域の条件に合わせて多くの品種が選抜されているが、主な品種は、花持ちの長いものと短いものの2種類である。栽培品種は、株の高さやさやさやの形や色に違いがある。さまざまな品種とそのバリエーションがあるため、栽培されるオクラの種類は通常、地元の人々が夕食のおかずとして好むものを反映している。
オクラは暑くて長い生育期間を好むが、背が低く、成熟が早く、実が小さい品種も開発されている。このような矮性で日持ちの短いタイプは、高さ60cmに達し、成熟に必要な期間はわずか7~9週間である。
温帯で見られるオクラは、かなり均一である。ある調査では266の温帯品種では、一貫した違いは見られなかった。しかし、それは誤解を招く。この種は、オクラの専門家でさえ見たことのないような巨大な遺伝的多様性を包含している。
環境要件
オクラは、多くの土壌や気候に適応する暖地性の一年草である。
降雨量 オクラは、さまざまな降雨量に耐える。
標高 ほとんどの品種は、標高1,000mまでの湿潤な熱帯低地に適応しています。
低温 発芽のための最低地温は16℃。良好な生育のためには、夜温が 13℃を下回らないようにする。
高温 生長、開花、さやの形成には、平均気温が 20-30℃が適当である。ほとんどの品種は、一貫して高温に適応しています。
土壌 幅広いタイプの土壌で経済的な収量が得られるが、(予想に反して)水はけがよく、肥沃な土壌で、十分な有機物を含み、主要な要素を蓄えている土壌が理想的である。過湿に弱い品種もあるので、水はけの良い砂地が好ましい。pH6.5~7.5の中性から弱アルカリ性の条件が最適と思われる。
関連種
Abelmoschus属は、アフロ・アジアの熱帯地方と北オーストラリアに6~15種が分布している。その中でもひときわ目を引くのが、アベルモスクまたはアンブレ(Abelmoschus moschatus Medik.) インド原産で、世界のほとんどの温暖な地域で栽培(または雑草)されているこの植物は、低木でやや木質化し、円錐形の5つの稜を持つさやには、オクラよりも小さい褐色の腎臓形の種子が多数入っている。種子は麝香のような匂いがあり、調香師はこれをアンブレットと呼ぶ(「abelmoschus」はアラビア語の「麝香の父」に由来し、「moschatus」も麝香の匂いを指す)。また、この植物は優れた繊維質を産し、粘液質を豊富に含むため、インド上流部では砂糖の清澄化に用いられている。同地ではベンディカイと呼ばれる品種があり、生食やアスパラガスのような調理法、あるいは漬物として食べられている。A.m. subsp. tuberosusの葉と塊茎は、オーストラリアで何世紀にもわたって食されてきた。
OKURA (オクラ)
熱帯、亜熱帯、温帯のほぼ全域ですでに生育しているという事実を考えると、オクラは失われた作物に関する本にはふさわしくないように思える。しかも、オクラが主要な資源として発展したのは、ごく一部の地域だけである。おそらく100カ国がこのアフリカの種を直接知っているにもかかわらず、西欧諸国のキャベツ、ニンジン、インゲン豆のような高みに到達した国はない。これには理由がある: 一般的に、オクラはあまり好まれないからだ。例えば、米国農務省が1974年に行った調査では、大人はオクラを最も嫌いな3種類の野菜のひとつに挙げ、子どもたちはオクラを2番目に嫌いな4種類の野菜に挙げている。 少なくとも米国では、それ自体のために別個の料理は作らないが、例外としてテキサス州のオクラとトマトの料理や、チャールストンのリンピング・スーザン(米とオクラをブレンドした料理)などは例外である。
サヤの中のネバネバした粘液状の汁が主な原因だ。そのヌルヌルが、この植物の大きな可能性を見えなくしているのだ。もちろん、オクラを崇敬に近い目で見ている場所もある。例えば、ニューオーリンズも西アフリカも、オクラなしでは変わらなかっただろう。しかし、この作物の全体的な地位を考えれば、ほとんどの観察者は、オクラの世界的資源としての自然的限界はとっくの昔に達したと論理的に結論づけるだろう。
しかし、もっと広い視野で見れば、それは疑わしい結論だろう。現実のオクラは、なぜ前の世代が目の前のチャンスをつかめなかったのか、人々を困惑させるような未来が待っているかもしれない。植物の王国では、それは実際にはシンデレラかもしれないが、依然として軽蔑の灰の中で無視の炉の上で生きている。以下は、この植物がやがて台頭し、作物植物の王族と肩を並べるようになるかもしれない理由である。
この植物は村人の作物として完璧である。ひとつには、栽培が簡単で、丈夫で、病害虫の影響を受けにくい。また、困難な条件にも適応し、他の食用植物が信頼できないような場所でもよく育つ。もうひとつは、収穫量が多く、他のどの野菜よりも生産量が多いことだ。第三に、栄養が豊富である。そして経済的に言えば、その製品はほとんどすべての人の手の届くところにある。
図2
オクラという植物は、食料資源としては奇妙なものである。豆を思わせる、ふわふわした緑色の鞘を持つ、粗く直立した草本植物である。その粘液質は、初めてオクラを食べる人には敬遠されるかもしれないが、多くのアフリカ人、そして増えつつある他の人々は、このヌルヌルした食感を何の障害にもならないと考えている。西アフリカではスープ野菜として人気があり、とろみをつける力が非常に高く評価されているオクラのさやは、生でも乾燥したものでも使われる。 例えば、ある調査によると、コートジボワール中部のバウレでは、生または乾燥オクラが最も頻繁に使われる野菜であった。乾燥したさやは粉にして食品によく使われる。サヘルでは、クスクスを作る最終段階でもこの粉は粒が互いにくっつくのを防ぐために使われる。
アメリカでは、オクラはほとんど煮込み料理やスープにしか使われない。それは一対のスポークの間に種子が埋め込まれた小さな車輪のように見える。オクラは、アメリカ南部の有名な料理であるガンボの重要な材料でもある。
サヤ、種子、葉、新芽、そして花の外側のカバー(萼)はすべて、茹でた青菜として食べられる。しかし、それはほんの始まりに過ぎない。オクラの種子には、タンパク質が含まれているほか、最高級のオリーブオイルのような性質を持つ油も含まれている。オクラの種は、タンパク質と油を大量に生産する。プエルトリコで行われたある実験では、1ヘクタール当たり612キロの油と658キロのタンパク質の収穫量が記録されている。その量は、温帯と熱帯の両方で生産される他の油脂およびタンパク質作物に匹敵する。
大豆と同様、オクラの種子も優れた植物性タンパク質で、完全無脂肪食、粉類、タンパク質濃縮物・ 分離物、食用油、レシチン、栄養補助食品(健康に役立つ機能性食品)などの用途に使われる。オクラのタンパク質はトリプトファンが豊富で、硫黄を含むアミノ酸も十分に含まれていて人栄養失調を低下させる力がある物である。さらに、殻や繊維などの副産物は家畜の飼料として利用できる。
「スライム」さえも市場に出回るかもしれない。この植物は、急成長する健康食品市場に貢献する未来があるかもしれない。病気の予防にますます関心を寄せる世界的な高齢化社会を考えると、粘液質は最近のビッグビジネスだ。オクラのさやの半分近くを占めるガムやペクチンは、血中の血清コレステロールを下げる働きがあると考えられている。オクラはまた、糖尿病患者の血糖値を安定させるための食事療法としても広く推奨されている。水溶性食物繊維が豊富なため、糖が腸から吸収されるスピードを抑えることができるからだ。
この植物は、市販の下剤成分の供給源としても将来性がある。ゼラチン状の物質が水分を吸収して膨張し、便秘を解消し克服するためのかさのある便を確保する。食物繊維はどんなものでも役に立つが、オクラは現在、数百万ドル規模の市場を形成している2つの作物、亜麻仁とサイリウムに匹敵する。言い換えれば、この野菜は余分なコレステロールや毒素を結合するだけでなく、それらの体外への迅速かつ容易な排出を保証する可能性がある。
オクラはまた、局所用の粘液を世界に提供する可能性もある。同様の多糖類ガムはアロエ・ベラからも得られる。アロエ・ベラは、傷を癒し、火傷を和らげ、凍傷のダメージを最小限に抑え、おそらくその他の薬効をもたらすと信じられているため、爆発的に利用されている伝統的な植物である。詳細な証拠がないにもかかわらず、オクラの粘液が、今、アロエベラが使われている次のような産業に供給する役割を果たせない理由はないように思われる。すでにアロエベラは、キャットサップを瓶から出しにくくする隠し味になっている。オクラガムは、血清アルブミンや卵白の増量剤としても役立つ可能性がある。マレーシアでは紙のサイズ調整にも使われている。
この万能植物は将来、高級文書や紙幣に使われるような最高級の紙を作る可能性もある。この場合、茎の外側の繊維が使われる。オクラには、近縁種のケナフ(Hibiscus cannabinus)と同様の「靭皮繊維」がある。成長が早く、アフリカのいとこによく似ているこの2つの植物は、世界の飽くなき紙の需要を満たすために、農家が林業家に加わる可能性を開いている。アメリカでは、ケナフはすでに小さな産業を生み出している。ケナフの1ヘクタール当たりの年間生産量は、米国で最も生産性の高い製紙用樹木であるサザンパインよりも多いと言われている。また、ケナフは30年ごとではなく5カ月ごとに収穫されるため、市場計画が立てやすく、その他にも多くの効率化が図れる。さらに、ケナフの紙は松の木の紙よりも強く、白く、長持ちし、黄変しにくく、インクの密着性が高い。まだテストはされていないようだが、オクラの紙も同様に優れている可能性が高い。
さらに、この植物は、液体を染み込ませるためのさまざまな製品の生産者としても将来性がある。これらの特殊な素材は、茎の繊維を取り除いた後に残る髄から作られる。ケナフでは、この副産物が動物用飼料に適していることが証明されている。
それ以上に、この植物は液体を吸収するための様々な製品の生産者としても将来性がある。これらの特殊な素材は、茎の繊維を取り除いた後に残る髄から作られる。ケナフでは、この副産物が動物の敷料、こぼれた油の拭き取り、鶏や子猫の砂、鉢植えの土に適していることが分かっている。オクラの副産物もそれに匹敵すると思われる。
図3
オクラは、少なくとも原理的には、野菜としては奇妙なものを生産する未来があるかもしれない:
- 建築資材。(建設資材。(ケナフ混合のパネルは、現在のパーティクルボードよりも性能が良いと言われている)。
- 手工芸品。(ケナフの繊維は、優れたマット、帽子、バスケットなどを作る。)
- 飼料。(ケナフを丸ごと刻んで家畜の飼料にすると成功する。)
- 燃料。(ケナフの根や茎は激しく燃える。)
まとめると、このアフリカの資源は農村生活、農村開発、外貨獲得、その他多くのことを改善するツールとなりうると言うことだ。
将来性
以上のことから、オクラは産業作物として大きな可能性を秘めている。そして、オクラの大量生産にはほとんど困難はなさそうである。たとえばアメリカでは、すでに缶詰や冷凍、塩漬けにするのに十分な量のサヤが生産され、全米のスーパーマーケットで販売されている。生鮮野菜としてのこの作物の見通しは、より謎めいているが、その分、前向きである。アボカドやウイスキーと同様、最初は抵抗があった味覚も、次第に和らいでいくものだ。しかし、核心はアフリカの野菜であり、その最大の恩恵はアフリカの人々にあるのだ。
アフリカ国内
湿度の高い地域 成熟の早いタイプは熱帯の高温多湿に適している。
乾燥地帯 砂漠の条件下での生育には構造的に適応していないが、乾燥と暑さには顕著な耐性を示し、アフリカのサバンナ地域では一般的に安定した生育が可能。
高地での栽培 最適 。これほど順応性の高い作物であれば、標高1,000mくらいまでの、生育期間がそれなりにある地域に適合する品種を見つけるのに苦労することはないだろう。
アフリカ以外
オクラがアフリカに限定されるものではないことは明らかだ。実際、他の地域でも非常によく育つ。南アジアや熱帯アメリカ、中国、そしておそらくオーストラリアやアメリカでは、オクラは新たな農業産業資源になるかもしれない。
用途
この植物のあらゆる部分が、何らかの有用な目的を提供しているようだ。
サヤ 未熟なサヤは、この植物の主な食用部分である。主に茹で野菜として使われるが、炒めたり、衣をつけて揚げたり、電子レンジで加熱したり、蒸したり、焼いたり、グリルしたりすることもできる。湯通しして冷凍(プレーン、パン粉付き)、漬け物、缶詰に加工されるものもある。
茹でたり、スープに加えたり、スライスして揚げたりしても、サヤは独特の風味と食感を持つ。単独で使っても、他の野菜と混ぜて使ってもよい。オクラの薄切りを炒めたときに出る粘液は、肉汁のとろみ付けになることで知られている。西アフリカでは、若いサヤを薄くスライスしてオクラ・スープを作るが、これは「フフ(この地域の主食で、でんぷん質の根でできている)と完璧なパートナー」と呼ばれている。
乾燥させたサヤの内部にはガムがそのまま残っており、食品の風味付けやとろみ付けに役立つ。西アフリカの人々は、サヤをスライスし、天日で乾燥させ、粉砕して粉末にするが毎年新しい収穫の直前にやってくる飢餓の時期に備えて保存しておくもの。トルコでは、冬に使うためにサヤを吊るして乾燥させる。
種子 一般的に、種子は生では食べられないほど成熟したサヤから採取される。調理したサヤを絞って種を取り出すこともできる。これらの種子は、乾燥エンドウ豆や豆、レンズ豆の代わりに、スープやご飯などの料理によく使われる。
コーヒーの代用品 熟成させた乾燥種子を焙煎し、挽いてコーヒーの代用品とすることができる。これはかつて、エルサルバドルなどの中米諸国、アフリカ、マレーシアなどで広く使われていた。ある報告によると、「出来上がった 「コーヒー 」は香りがよく、カフェインの刺激作用がないため、無害である」。アフリカの野生食品に関する著名な本は、オクラを 「知られている中で最も優れたコーヒーの代用品のひとつ 」と呼んでいる。
油とタンパク質 オクラの種子の油とタンパク質の供給源としての可能性は、少なくとも1920年頃から知られていた。種皮の約40%は油である。緑がかった黄色の液体で、心地よい香りがあり、不飽和脂肪酸、特にリノール酸とオレイン酸の含有量が高い(70%)。保存期間は短いが、水素添加が容易で、マーガリンやショートニングの原料になる。
油の抽出後に残る残渣は、飼料になる可能性がある。タンパク質が40%以上含まれ、チアミン、ナイアシン、トコフェロールも比較的多く含まれている。しかし、毒性に関する疑問も残っている(後述)。
カード プエルトリコの研究チームは、オクラが「豆腐」になることを意外にも発見した。フランクリン・マーティンが率いる実験チームは、オクラの種子を水の中で細かく砕き、水性混合物を布製のフィルターで濾した後、二価の塩(硫酸マグネシウムなど)や酸(酢やライムジュース)を加えてタンパク質を沈殿させた。味覚審査委員会は、オクラ豆腐を生でも調理しても、またチーズの代用品としても美味しく食べられると評価した。タンパク質と油分の含有率は、それぞれ43%と53%と高い。 パーセントは乾燥重量ベースで測定。
葉 様々な葉を食べる地域(特に西アフリカや東南アジア)では、柔らかいオクラの葉が日常食の一部となっていることが多い。ホウレンソウのように調理されたり、スープやシチューに加えられることが多い。オクラの品種の中には、葉に毛が生えているものがあるが、これは調理することによって目立たなくなる。西アフリカでは、柔らかい新芽、花のつぼみ、へたも伝統的に鍋に入れる。サヤと同様、オクラの葉もよく日のもとで乾燥させ、潰し、引いて粉にし、将来の利用に貯蔵する。味は、やや酸味がある。株の下の方を注意深く摘むことで、茎の上の方の種子の数を減らすことなく、葉をたくさん収穫することができる。
バイオマス 収穫期が終わると、残った葉と茎は1ヘクタールあたり27トンにもなる。これはかなり燃やせる。茎はかなりの熱を発するが、火花や過度の煙、悪臭は発生しない。一方、これらの軽い茎は短時間しか燃えないため、役に立つには特別なストーブが必要かもしれない。世界的に燃料費が高騰し、新しい技術によって液体燃料への効率的な変換が期待される中、オクラのバイオマスは、特に熱帯林の破壊が進むにつれて、大いに役立つようになると思われる。
粘液 粘液の入手は簡単である。未熟なさやの切れ端を水に入れるだけである。茹でるととろみがつく。粘液の正体は、ガラクツロン酸、ラムノース、グルコースからなる酸性多糖類である。中性pHで最大粘度を示し、過熱すると分解する傾向がある。
観賞用 オクラは、ハイビスカスと呼ばれる一般的な観賞用植物と近縁であるため、オクラの大きくて魅力的な花は、どこか見覚えがあるような気がする(花は黄色で、中心が真紅に染まることもある)。サヤも面白い形をしており、硬くて食べられなくなったサヤは、乾燥させたり、熟成させたりして、長持ちするフラワー・アレンジメントに入れることができる。
図 4
薬用 東洋では古くから、痛みを和らげるために葉や未成熟の果実を湿布に使ってきた。
栄養
オクラは主食というよりはダイエット食である。オクラの実は低カロリー(100gあたり20g以下)で、脂肪はほとんどなく、食物繊維が豊富である。ビタミンCは推奨量の約30%(16~20mg)、葉酸は10~20%(46~88