2012年8月アーカイブ
2012年8月24日 17:48 ( )北京における第14回Bread Congressでの発表と北京雑感
8/6-9、中国北京市での第14回 Bread Congressが開催され、口頭発表を行ないました。内容はヤマイモを用いたパン、Gluten-free breadについてでした。
8月5日(日)早朝に宇治の自宅を出発し、関空からフライトで3時間で北京へ到着しました。北京空港は巨大な空港で、建物も近代的なモダンなもので、以前(平成6年訪問)の北京空港とは比べ物にならないほどのものでした。飛行場は、T2, T3と分かれているようでした。使用したANAはT3です。飛行場へ到着後、ホテルへのタクシーを探していると、ホテル用バンのようなもののドラーバーにしつっこく纏わりつかれました。高額(650元)をとられ、そのままホテルへ向かいました。あとで空港からホテルまで100元以下のところとわかりました。極めて悪質で、北京のイメージダウンでした。650元は日本円で7000円ほど。
ホテルはオリンピック会場近くで、例の鳥巣がすぐ近くに見えました。ホテルで手続きしてから町へ出ました。目で見えるところへという事でこの鳥巣を目指して歩きました。
日本と北京とは時差1時間、日本より1時間遅れています。疲労はありません。この鳥巣のあるこの一帯が大きな公園になっていて、4年前北京オリンピックが行なわれたのです。今では地方の人々の観光地となっていました。
この会場をどんどん進んで鳥巣の近くに行くと、コンクリートで固めてつくられている一個一個の構成体(巣の枯れ枝の部分)を寄せ集めて、巨大な鳥の巣が作られていました。その中心部に陸上競技場とそれを囲む観客席が出来ていました。鳥巣の中に入るのに25元とられました。陸上競技場のトラックは広く、天井は筒ぬけになっていました。その周辺は巨大なスクリーンで張り巡らされていて、オリンピック当日には会場スタジアムとしていろいろ工夫して使われたのでしょう。売店、飲食店も多く存在していました。
外へ出ればと簡単にホテルまで戻れると思いましたが、出る場所が間違えたせいか、探せど探せどホテル近くにまでたどり着けません。中国人に簡単なマップを見せるが、言葉(英語)は全く通じません。オリンピックでは客は不便したでしょう。結局クタクシーにのり、ホテルにまで戻りましたが、オリンピック公園に入ったゲートとは丁度反対のゲートから外に出たようで、タクシーでぐるりとまわってホテルへたどり着きました。北京の町は何処もここも同じように見えました。道路標識もわかり難いです。日本のガイドブックのマップとは表示が違っていたりで、距離感も掴み難く、わかり難いのです。とんでもないところへ歩いていってしまうという感じでした。暗くなってからは危険です。マップから感じる広さの感覚は日本的ではないのです。我々の感じるマップからの広さよりも実際はもっと広いのです。
翌日学会会場で登録を行なって、再び北京の町に出ました。概して北京の街は衛生的であり、オリンピックで何もかも新しくしたような感じです。アメリカなどの中華街独特の臭気は全くありませんでした。
近くの地下ショッピングセンターへ行き、フードセンターのようなところにいると、昼頃になり人々がどんどん集まりはじめ、昼食を始めました。中国人はよく食べます。食べる量も半端でありません。体つきも頑丈で体格もいいです。日本人より馬力があるように感じられました。町の治安はいいと思いました。北京の人たちは次第に豊かになっているのでしょう。物価は高く日本と同じぐらいと言った感じでした。スーパーなどの品物の多さも日本並みで豊富でした。食品コーナーには珍しい面白いものが多く見られました。日本とは飛行機で3時間だが、別世界。もっと簡単に行き来をしたいものです。
町には以前のように警察官が多くないし、人々も温厚になっています。かつて町の中で人々が怒鳴りあっているのがよく見られましたが今回はありませんでした。そのとき、この怒鳴り合いとは中国人の普通の事なのか、中国人はわれわれとは違う感覚なのかと思ってましていたが、そんな事はありません。あれは感情的な喧嘩でした。
日本への帰りはもっと安価に飛行場まで行きたいと思い、地下鉄を調べました。オリンピックの際、中心部から飛行場まで地下鉄が設置されたようです。T2, T3と二カ所の飛行場駅があるので注意をと日本のガイドブックにありました。地下鉄のマップを見ると、T3とT2は全く別のところで、かなり離れている様子でした。
まづマップでホテルから最も近い地下鉄駅を探すと、恵新西街北口でした。ホテルから歩いて何とか行けそうでした。ホテルの中国語地図、日本のガイドブックのマップを両手に持って、道路標識を見ながら進みました。日本のガイドブックのマップ上の日本語と中国語とは一致しません。類似しているところを探しながら進むました。
地図を上下ひっくり返しながら、目前の道路標識と比べ、右へ行くべきか、左へ行くべきか、もう次のこの道路へ出るべきだが、それがでてこないではないか。地下鉄入り口のようなところへきたが、その門は閉まっていました。近くにいた男に聞くが、英語は全くわかりません。その男が三輪車の様なクルマを捕まえてきて、その運転手に説明してくれています。その男はサブウエーかといい、そうだというと乗れという。フニャフニャの貧弱な三輪車に乗り、おっかなびっくりだがかなりのスピードでこの三輪車は公道を走りました。ここだと言って12元で下されました。恵新西街南口でした。たしかにマップにある目標の次の地下鉄駅でした。エレベーター等全て日本製です。そこから日本の地下鉄のようにチケット(2元)を自動販売機で買おうとするが、T3までのルートが切れて表示され、費用がわかりません。帽子をかぶったゲートの男に聞いたら中国語で答えてくる。意味不明。
ここから三元橋までまず2元でチケット買って、そこからは新しいチケット買えという事のようでした。三元橋が飛行場までのメイン駅の様です。何とか三元橋まで行くが、確かに25元でそこからチケットを買いました。地下鉄車両は日本のものと同じで立派です。電車は途中から地上に上がり、北京の校外の様子も伺う事が出来ました。終点のT3では下車せずにそのまま乗っていると、電車は反対方向に動きはじめ、ずっと先のT2へ向かいました。T3とT2はかなり距離がありました。
下車せずにそのままダウンタウンへ戻り、三元橋で下車し、外へでました。建物が多く、ひとの流れに伴って歩いてゆくが、一帯何処がどうなっているのか全く不明です。
ホテルからここまでタクシーで来て、果たして地下鉄へ乗れるだろうか?帰りはフライト時間は決まっている。迷うと乗り遅れる。すっきりしないままタクシーを捕まえてホテルへもどりました。ホテルまでかなり距離がありました。日本は狭いですね。たとえば歩いているうちに須磨から三宮まで着いてしまいますが, 北京は歩いても歩いても目的地に到着しないという感じでした。
さて学会の話。やはりしゃべり原稿をつくり、それをベースに発表しました。スライドは20枚余か、そのうち一枚のファイルの図面が映らなかったのです。この辺り準備不足でした。手元が暗くて原稿を読み難い。明るさが欲しかったです。
一人女性が立って、長々と質門してきましたが、その内容が不明でした。耳も悪いためか聞き取れなかったのです。何とかなると思ったが、全く答えようがなかったのです。
恥ずかしながら、"Could you discuss outdoor ?"とこちらから述べました。座長,Okkyung Km Chung 先生がうまく終りにしてくれました。
席に戻り、質問してきた事を聞くと、スターチに小麦スターチを使ったのはなぜかという質問でした。小麦スターチの機能性を利用したかった、目下他のスターチで検討中ですと言ったらOKとなりました。
翌日、結局、タクシーで飛行場まで戻りました。ホテルマンが地下鉄はわかり難いといったためです。
8月5日(日)早朝に宇治の自宅を出発し、関空からフライトで3時間で北京へ到着しました。北京空港は巨大な空港で、建物も近代的なモダンなもので、以前(平成6年訪問)の北京空港とは比べ物にならないほどのものでした。飛行場は、T2, T3と分かれているようでした。使用したANAはT3です。飛行場へ到着後、ホテルへのタクシーを探していると、ホテル用バンのようなもののドラーバーにしつっこく纏わりつかれました。高額(650元)をとられ、そのままホテルへ向かいました。あとで空港からホテルまで100元以下のところとわかりました。極めて悪質で、北京のイメージダウンでした。650元は日本円で7000円ほど。
ホテルはオリンピック会場近くで、例の鳥巣がすぐ近くに見えました。ホテルで手続きしてから町へ出ました。目で見えるところへという事でこの鳥巣を目指して歩きました。
日本と北京とは時差1時間、日本より1時間遅れています。疲労はありません。この鳥巣のあるこの一帯が大きな公園になっていて、4年前北京オリンピックが行なわれたのです。今では地方の人々の観光地となっていました。
この会場をどんどん進んで鳥巣の近くに行くと、コンクリートで固めてつくられている一個一個の構成体(巣の枯れ枝の部分)を寄せ集めて、巨大な鳥の巣が作られていました。その中心部に陸上競技場とそれを囲む観客席が出来ていました。鳥巣の中に入るのに25元とられました。陸上競技場のトラックは広く、天井は筒ぬけになっていました。その周辺は巨大なスクリーンで張り巡らされていて、オリンピック当日には会場スタジアムとしていろいろ工夫して使われたのでしょう。売店、飲食店も多く存在していました。
外へ出ればと簡単にホテルまで戻れると思いましたが、出る場所が間違えたせいか、探せど探せどホテル近くにまでたどり着けません。中国人に簡単なマップを見せるが、言葉(英語)は全く通じません。オリンピックでは客は不便したでしょう。結局クタクシーにのり、ホテルにまで戻りましたが、オリンピック公園に入ったゲートとは丁度反対のゲートから外に出たようで、タクシーでぐるりとまわってホテルへたどり着きました。北京の町は何処もここも同じように見えました。道路標識もわかり難いです。日本のガイドブックのマップとは表示が違っていたりで、距離感も掴み難く、わかり難いのです。とんでもないところへ歩いていってしまうという感じでした。暗くなってからは危険です。マップから感じる広さの感覚は日本的ではないのです。我々の感じるマップからの広さよりも実際はもっと広いのです。
翌日学会会場で登録を行なって、再び北京の町に出ました。概して北京の街は衛生的であり、オリンピックで何もかも新しくしたような感じです。アメリカなどの中華街独特の臭気は全くありませんでした。
近くの地下ショッピングセンターへ行き、フードセンターのようなところにいると、昼頃になり人々がどんどん集まりはじめ、昼食を始めました。中国人はよく食べます。食べる量も半端でありません。体つきも頑丈で体格もいいです。日本人より馬力があるように感じられました。町の治安はいいと思いました。北京の人たちは次第に豊かになっているのでしょう。物価は高く日本と同じぐらいと言った感じでした。スーパーなどの品物の多さも日本並みで豊富でした。食品コーナーには珍しい面白いものが多く見られました。日本とは飛行機で3時間だが、別世界。もっと簡単に行き来をしたいものです。
町には以前のように警察官が多くないし、人々も温厚になっています。かつて町の中で人々が怒鳴りあっているのがよく見られましたが今回はありませんでした。そのとき、この怒鳴り合いとは中国人の普通の事なのか、中国人はわれわれとは違う感覚なのかと思ってましていたが、そんな事はありません。あれは感情的な喧嘩でした。
日本への帰りはもっと安価に飛行場まで行きたいと思い、地下鉄を調べました。オリンピックの際、中心部から飛行場まで地下鉄が設置されたようです。T2, T3と二カ所の飛行場駅があるので注意をと日本のガイドブックにありました。地下鉄のマップを見ると、T3とT2は全く別のところで、かなり離れている様子でした。
まづマップでホテルから最も近い地下鉄駅を探すと、恵新西街北口でした。ホテルから歩いて何とか行けそうでした。ホテルの中国語地図、日本のガイドブックのマップを両手に持って、道路標識を見ながら進みました。日本のガイドブックのマップ上の日本語と中国語とは一致しません。類似しているところを探しながら進むました。
地図を上下ひっくり返しながら、目前の道路標識と比べ、右へ行くべきか、左へ行くべきか、もう次のこの道路へ出るべきだが、それがでてこないではないか。地下鉄入り口のようなところへきたが、その門は閉まっていました。近くにいた男に聞くが、英語は全くわかりません。その男が三輪車の様なクルマを捕まえてきて、その運転手に説明してくれています。その男はサブウエーかといい、そうだというと乗れという。フニャフニャの貧弱な三輪車に乗り、おっかなびっくりだがかなりのスピードでこの三輪車は公道を走りました。ここだと言って12元で下されました。恵新西街南口でした。たしかにマップにある目標の次の地下鉄駅でした。エレベーター等全て日本製です。そこから日本の地下鉄のようにチケット(2元)を自動販売機で買おうとするが、T3までのルートが切れて表示され、費用がわかりません。帽子をかぶったゲートの男に聞いたら中国語で答えてくる。意味不明。
ここから三元橋までまず2元でチケット買って、そこからは新しいチケット買えという事のようでした。三元橋が飛行場までのメイン駅の様です。何とか三元橋まで行くが、確かに25元でそこからチケットを買いました。地下鉄車両は日本のものと同じで立派です。電車は途中から地上に上がり、北京の校外の様子も伺う事が出来ました。終点のT3では下車せずにそのまま乗っていると、電車は反対方向に動きはじめ、ずっと先のT2へ向かいました。T3とT2はかなり距離がありました。
下車せずにそのままダウンタウンへ戻り、三元橋で下車し、外へでました。建物が多く、ひとの流れに伴って歩いてゆくが、一帯何処がどうなっているのか全く不明です。
ホテルからここまでタクシーで来て、果たして地下鉄へ乗れるだろうか?帰りはフライト時間は決まっている。迷うと乗り遅れる。すっきりしないままタクシーを捕まえてホテルへもどりました。ホテルまでかなり距離がありました。日本は狭いですね。たとえば歩いているうちに須磨から三宮まで着いてしまいますが, 北京は歩いても歩いても目的地に到着しないという感じでした。
さて学会の話。やはりしゃべり原稿をつくり、それをベースに発表しました。スライドは20枚余か、そのうち一枚のファイルの図面が映らなかったのです。この辺り準備不足でした。手元が暗くて原稿を読み難い。明るさが欲しかったです。
一人女性が立って、長々と質門してきましたが、その内容が不明でした。耳も悪いためか聞き取れなかったのです。何とかなると思ったが、全く答えようがなかったのです。
恥ずかしながら、"Could you discuss outdoor ?"とこちらから述べました。座長,Okkyung Km Chung 先生がうまく終りにしてくれました。
席に戻り、質問してきた事を聞くと、スターチに小麦スターチを使ったのはなぜかという質問でした。小麦スターチの機能性を利用したかった、目下他のスターチで検討中ですと言ったらOKとなりました。
翌日、結局、タクシーで飛行場まで戻りました。ホテルマンが地下鉄はわかり難いといったためです。
「最後の海軍大将 井上成美」(宮野 澄著 文春文庫)を読んで
本著は、先日森永製菓研究所の親睦会で三島へ出かけた際、その会の直前にお会いした松木寿助氏(仙台二高、高4)からいただいた本です。中には宮城県仙台第二高等学校同窓会報(第42号)が挟まれており、その巻頭言に前会長西澤潤一氏(中44) の書かれた巻頭言がありました。この中に本校卒業生井上成美提督の紹介と彼に関する旧著の再販された旨の記述があったのです。
本著を北京出張の機中で読み始めました。井上成美氏は第2次世界大戦、戦中、戦後、最後の海軍大将とか、沈黙の提督とか言われた人で、その存在は西澤潤一会長の同窓会の講話に良く引き合いに出されてきました。
井上成美氏は中7回卒(明治40年、1907年)の方です。第2次世界大戦、日本が戦争へ突入する頃の海軍軍人で、米内光政、山本五十六両提督と力を合わせて戦争反対に動き、さらに戦中いち早く戦争終結に道をひらいた軍人として歴史上著名な方です。
宮野澄氏は、井上成美氏の事に関心を抱かれ、事細かく彼の生涯を本著にしたためられました。興味深い本でした。宮野澄氏がまず本の扉に書かれている事は、氏がなぜ井上成美氏に興味を抱かれたかという事でした。戦争直前の政治家、軍人達の不穏な動き、5.15、2.24事件、三国同盟の動きに対して、冷静に国際状況を研究し、国の安全を自らの命をかけて守ろうとした事、そしてそのベースにある大きな常識力、判断力に興味を抱かれたのでしょう。井上成美氏のとった行動の正確さは歴史的にも明らかです。
それはさておき、氏が井上成美氏に驚かされた事は、戦中にあって、敗戦が見え始める頃になって、海軍兵学校(江田島)校長として極めてまともな教育を行なった事でしょう。
井上成美氏は、この戦争が敗戦となることを基本とし、この数千名の若者達に人殺しの仕方を教えるのではなく、敗戦後彼らがどうやって生きのびて行けるのか、更には敗戦の日本国の立て直しまで考慮して、何と英語教育に力を入れたのです。
当時、兵学校の入試に英語を入れるべきかどうかと教員間で決を取ったといいます。当然ほとんどの教員は英語入試に反対であったが、これまで通り入試科目に英語を使うことをそのままとすると校長の断で存続させたのです。英語ばかりでなく、普通学を行なう事が第一主義であるとも述べています。普通学とは今で言う教養科目の事です。
本著の中で小生が強く感じたのは、井上成美氏の人間感です。家畜場のような兵学校の生活をみて、「国のためだなんていって、勇んで学校に入ってきて、戦争に負けて中途で放りださせてどうなるのか。勿論体は丈夫になっているし、躾けは十分してありますから、人作りは出来ているし、だけど頭の使う方は空っぽな人作りでは困る。だから普通学だ」と、「東大を出たような学士様なら、戦場で十分に使えると見たのです。いわゆるジェントルマンならば、デューテイ観念があって、レスポンスビリッテーを身に付けた人間ならばそのまま戦争に出しても使えるという結論を私は持っていた」と述べています。
戦争中の話を読んだり、聞いたりする場面が多くあったが、小生の興味は、その人殺し集団の中心にいる人間に果たしてインテリゲンスがあったかどうかにつきます。そして、自分の部下を、あるいは部隊を殺さずに、うまく生き抜いてきた部隊の中心の人間は、必ず教育のあるインテリであったような感慨を抱いています。死地にあって、ひとを殺さずに、部隊を生きのこらせた軍人には強いインテリゲンスを感じてきました。
仙台二中の精神もこの辺にあったのではないでしょうか。雑学を子供の頃にしっかり頭に入れて、その雑学と軍事学(人殺し学)との間の関連性を読み取らせる力を与える教育が当時の仙台二中にはあったのでしょう。若いヒトの将来を思って、反対者を押し切ってこうした思い切った教育を、しかも戦争終了間際の混乱期に行なっています。これも正しい判断であったと思います。
終戦後、幾多の兵学校卒生が日本の社会を立て直す軸になったことは確かです。大学教育を受けたとき、ある教育学の教授を思い出します。彼は兵学校出身で、戦後大学に入り直し、学者になられた先生でした。江田島の様子を授業中に聞いたおぼえがあります。戦後の教育界にはこうした人々が幾多もいました。井上成美氏の薫陶を受けた方達と思いたいところです。
井上成美氏は、終戦直後お嬢さん、お孫さんと貧困の生活を続けるわけであるが、お嬢さんを殆ど栄養失調で失い、自身は社会から外れた仙人のような生活で、身を隠す生活を続けました。死ぬ気でいたのでしょう。しかし自然と周囲の子供達が彼のもとに集まってきました。子供達に英語教育などを教え、人の道も教えるという波乱の人生を送って、昭和50年(1975) にはなくなられています。
軍事という専門教育を、管理栄養士などという専門教育に置き換えてみた場合など、我々にも多いに参考になる事が感じられ、ここに本著を紹介する次第です。
本著を北京出張の機中で読み始めました。井上成美氏は第2次世界大戦、戦中、戦後、最後の海軍大将とか、沈黙の提督とか言われた人で、その存在は西澤潤一会長の同窓会の講話に良く引き合いに出されてきました。
井上成美氏は中7回卒(明治40年、1907年)の方です。第2次世界大戦、日本が戦争へ突入する頃の海軍軍人で、米内光政、山本五十六両提督と力を合わせて戦争反対に動き、さらに戦中いち早く戦争終結に道をひらいた軍人として歴史上著名な方です。
宮野澄氏は、井上成美氏の事に関心を抱かれ、事細かく彼の生涯を本著にしたためられました。興味深い本でした。宮野澄氏がまず本の扉に書かれている事は、氏がなぜ井上成美氏に興味を抱かれたかという事でした。戦争直前の政治家、軍人達の不穏な動き、5.15、2.24事件、三国同盟の動きに対して、冷静に国際状況を研究し、国の安全を自らの命をかけて守ろうとした事、そしてそのベースにある大きな常識力、判断力に興味を抱かれたのでしょう。井上成美氏のとった行動の正確さは歴史的にも明らかです。
それはさておき、氏が井上成美氏に驚かされた事は、戦中にあって、敗戦が見え始める頃になって、海軍兵学校(江田島)校長として極めてまともな教育を行なった事でしょう。
井上成美氏は、この戦争が敗戦となることを基本とし、この数千名の若者達に人殺しの仕方を教えるのではなく、敗戦後彼らがどうやって生きのびて行けるのか、更には敗戦の日本国の立て直しまで考慮して、何と英語教育に力を入れたのです。
当時、兵学校の入試に英語を入れるべきかどうかと教員間で決を取ったといいます。当然ほとんどの教員は英語入試に反対であったが、これまで通り入試科目に英語を使うことをそのままとすると校長の断で存続させたのです。英語ばかりでなく、普通学を行なう事が第一主義であるとも述べています。普通学とは今で言う教養科目の事です。
本著の中で小生が強く感じたのは、井上成美氏の人間感です。家畜場のような兵学校の生活をみて、「国のためだなんていって、勇んで学校に入ってきて、戦争に負けて中途で放りださせてどうなるのか。勿論体は丈夫になっているし、躾けは十分してありますから、人作りは出来ているし、だけど頭の使う方は空っぽな人作りでは困る。だから普通学だ」と、「東大を出たような学士様なら、戦場で十分に使えると見たのです。いわゆるジェントルマンならば、デューテイ観念があって、レスポンスビリッテーを身に付けた人間ならばそのまま戦争に出しても使えるという結論を私は持っていた」と述べています。
戦争中の話を読んだり、聞いたりする場面が多くあったが、小生の興味は、その人殺し集団の中心にいる人間に果たしてインテリゲンスがあったかどうかにつきます。そして、自分の部下を、あるいは部隊を殺さずに、うまく生き抜いてきた部隊の中心の人間は、必ず教育のあるインテリであったような感慨を抱いています。死地にあって、ひとを殺さずに、部隊を生きのこらせた軍人には強いインテリゲンスを感じてきました。
仙台二中の精神もこの辺にあったのではないでしょうか。雑学を子供の頃にしっかり頭に入れて、その雑学と軍事学(人殺し学)との間の関連性を読み取らせる力を与える教育が当時の仙台二中にはあったのでしょう。若いヒトの将来を思って、反対者を押し切ってこうした思い切った教育を、しかも戦争終了間際の混乱期に行なっています。これも正しい判断であったと思います。
終戦後、幾多の兵学校卒生が日本の社会を立て直す軸になったことは確かです。大学教育を受けたとき、ある教育学の教授を思い出します。彼は兵学校出身で、戦後大学に入り直し、学者になられた先生でした。江田島の様子を授業中に聞いたおぼえがあります。戦後の教育界にはこうした人々が幾多もいました。井上成美氏の薫陶を受けた方達と思いたいところです。
井上成美氏は、終戦直後お嬢さん、お孫さんと貧困の生活を続けるわけであるが、お嬢さんを殆ど栄養失調で失い、自身は社会から外れた仙人のような生活で、身を隠す生活を続けました。死ぬ気でいたのでしょう。しかし自然と周囲の子供達が彼のもとに集まってきました。子供達に英語教育などを教え、人の道も教えるという波乱の人生を送って、昭和50年(1975) にはなくなられています。
軍事という専門教育を、管理栄養士などという専門教育に置き換えてみた場合など、我々にも多いに参考になる事が感じられ、ここに本著を紹介する次第です。
モチ小麦デンプンの話 4
北海道農業試験場にいらした山内 宏昭さん(現 帯広畜産大学教授)にお願いして、104日間、モチ小麦 (5種、K107 Wx 1, Tanikei 1881,1884, Morikei CD 1478, 479)を育てていただきました。
その間、開花後6,16、33 、37日目というようにサンプルを収穫していただきました。デンプン粒を偏光顕微鏡観察すると、デンプン粒独特の暗十字を示しながら次第にその生長が認められました。
これらを濃KI/I2で染色すると、何れもGhost化を示しました。すなわちこれまで粒形のデンプン粒は、花が開くように中心部の黒褐色部とその周縁部のピンク色の部分への変形(これをGhost 化と言います)です。周縁部は、日数とともに38、57、65、82%と増加してゆきました。
つまり、デンプン粒は、はじめGhost中心部(色の黒褐色部)から形成が始まり、次第に周縁部(ピンク色の部分)の形成へと続くようでした。5種類いずれも同じでした。
大麦、米、トウモロコシ、アワ、ヒエのモチデンプン粒が入手できました。何れも偏光顕微鏡で暗十字を示し、濃KI/K2溶液でGhost化しました。しかしながらこちらは小麦デンプン粒とは異なって何れも単一の袋状でした。つまりGhostの構造には、黒褐色部、ピンク色部はなく、黒褐色部のみの構造でした。
つづく
その間、開花後6,16、33 、37日目というようにサンプルを収穫していただきました。デンプン粒を偏光顕微鏡観察すると、デンプン粒独特の暗十字を示しながら次第にその生長が認められました。
これらを濃KI/I2で染色すると、何れもGhost化を示しました。すなわちこれまで粒形のデンプン粒は、花が開くように中心部の黒褐色部とその周縁部のピンク色の部分への変形(これをGhost 化と言います)です。周縁部は、日数とともに38、57、65、82%と増加してゆきました。
つまり、デンプン粒は、はじめGhost中心部(色の黒褐色部)から形成が始まり、次第に周縁部(ピンク色の部分)の形成へと続くようでした。5種類いずれも同じでした。
大麦、米、トウモロコシ、アワ、ヒエのモチデンプン粒が入手できました。何れも偏光顕微鏡で暗十字を示し、濃KI/K2溶液でGhost化しました。しかしながらこちらは小麦デンプン粒とは異なって何れも単一の袋状でした。つまりGhostの構造には、黒褐色部、ピンク色部はなく、黒褐色部のみの構造でした。
つづく