2016年8月アーカイブ
2016年8月24日 17:32 ( )ガゴメ昆布パンについて
ガゴメ昆布パンについて
昆布の粘りをグルテンフリーパンに用いました。特に粘りの大きいガゴメ昆布に注目しました。
ガゴメ昆布とは北海道函館地方の昆布で、その存在が余り広く知られていませんでした。明治35年に宮部金吾氏により発見された昆布で、その表面に凹凸のある形態で、真昆布と明らかに違っています。
他の昆布より粘りの強いこと、さらに健康面からも関心がもたれるようになりました。その粘り成分はアルギン酸20-30%、ラミナリン4-4.5%、フコイダン4-5%であると言われています。
数年前からグルテンフリーパンの食材としてこの強い粘りに関心を抱いていました。学部の学生に実験やらせていましたが、なかなかうまくゆかず、パンは膨化せずに難渋していました。
非常に粘るため、これまでのバナナパン、ジネンジョパン(各パンでは、パン1個にバナナ30g、ジネンジョ10gを用いた)と同じようにパン1個に数十グラムというわけにゆきませんでした。大学院生の井関さんがこのテーマに取り組みました。
井関さんは、1個のパンに用いるガゴメ昆布量をどんどん減らしたのです。300mgの少量のガゴメ昆布を用いることにより製パンに成功しました。ガゴメ昆布300mg、小麦デンプン30.2g, 砂糖8.81g、コンプレストイースト10g、水22.0mLの配合でした。
これまでのバナナパンは、パン1個に対しバナナ30g, 小麦デンプン30g、砂糖8.86g、コンプレストイースト10gと水50mLの配合で製パンはできました。ジネンジョパンは、ジネンジョ10 g, 小麦デンプン30 g, 砂糖8.86 g, コンプレストイースト10 g, 水 20 mLの配合で製パンが可能でした。
ガゴメ昆布の使用量は非常に少なくてよく、パンの香り、クラム色等への影響はきわめて少なく、粘性素材としては極めて有効な物と思われました。
このガゴメ昆布を水とともに撹拌後、遠心分離して上清区分と沈殿区分に分けると、この製パン性は上清区分(3000rpm)にあり、沈殿区分にはありませんでした。前述の多糖類が水溶性であることから、これらの多糖類との関連性がうかがわれました。
この上清液は水に対して透析してHMW(高分子区分)区分とLMW(低分子区分)区分に分けることができます。夫々を凍結乾燥後、製パン試験を行うと、HMW区分のみが製パン性を示しました。
上清液は色、粘性等から2層に分離しました。その上部は黄色がかった透明の層で、その下にダークの粘性ある層がきます。明らかに分離できるのでこれら2つの層に分け、夫々凍結乾燥後、製パン試験を行うと、下層の方が多少製パン性は劣りましたが、何れもよく膨化しました。
この上清区分は120℃, 90分間熱処理すると、これらの多糖類を含むガゴメ昆布は粘性を失いました。普通この程度の加熱(湿性)で多糖類は粘性を失うでしょうか。ガゴメ昆布によるグルテンフリー膨化食品の可能性をお伝えしました。
久しぶりのシュリーマン
今年
(2016年) 4月にトルコ・イスタンブールでの第4回国際パン学会に出席してきた。学会の時間を見てイスタンブールの国立考古学博物館(アルクオロムゼマイ)へ行き、メソポタミア文明の古代遺跡の展示を見て歩くうちに、シュリーマン(ハインリッヒ・シュリーマン)の写真の展示コーナーがあった。
シュリーマンが異国語を僅か数ヶ月でマスターしたという話を学生のころに読んだことが思い出された。さらにトロイ遺跡の発掘の業績なども知っていた。懐かしい場面であった。
帰国後、シュリーマンの事が気になってマックで調べてみると、何と奈良の天理大学にシュリーマンの資料、シュリーマンの発掘の記録データ(その頃は写実、手書きの記録など)が所有されており、つい最近まで天理市天理参考館で公開中だった。すぐに問い合わせたところ、その展示はすでの終了しており、日本各地で開催中とのこと、来年名古屋で行う(今年12月-明年1月)という。名古屋での展示会を見たいものである。
その際、学芸員の方から最近天理大学付属天理参考館が編者となって山川書店からシュリーマンの業績を出版した(「ギリシャ考古学の父 シュリーマン」)と伺った。新しい情報の多くをのせてあるのでこれを見て欲しいとのことであった。直ちに書店から取り寄せた。シュリーマンの有名な「古代への情熱」も関 楠生訳を新たに入手した。さらに天理大学紹介の本から、シュリーマンが江戸時代末期に中国・日本を訪問した際の本が石井和子氏の翻訳で読む事ができること知った。この本、「シュリーマン旅行記 清国・日本 石井和子訳」も入手した。
3冊の本を読み進めるうちに、再度トルコ・イスタンブールから入って、トルコチャナッカレ・ヒサルックの丘のシュリーマンの遺跡発掘現場を見たいと思った。そこにはトロイ考古学博物館ができているようだ。彼が自らほじくった土をいじってみたいと思ったからである。さらにギリシャアテネの彼の最後の自宅(アテネ貨幣博物館)も見たい。そこには「休養は次の仕事に大切。しかしねすぎないように。」と古代ギリシャの言葉があるようだ。
興味深かったのは「シュリーマン旅行記、清国・日本 石井和子訳」であった。その翻訳は丁寧に、正確にすすめられていて、シュリーマンの性格、几帳面さ、探求心、まじめさ、研究者としての客観性など多くのものがこの本から読みとれた。訳者石井氏は、御子息がフランスから持ち帰ったシュリーマンのこの貴重本を訳されたものである。
西洋とは異世界の当時の日本を、シュリーマンは単なる興味本意からではなく、きわめて客観的態度でするどく観察、記録している。現在の日本人が、ともすると時間とともに忘れている昔のことなどもそこには正確に記録されている。
その中にはパンのことも数回出てはくるが、当時の日本人の中にはパンは全く入り込んでいない。そのかわりすばらしい清潔な食品、米のことがでてきて、日本人はこれを食べていると。家族で正坐して、はし、茶碗など使い食事している。机も椅子もないきわめて簡潔な規則正しい畳の生活が日本人の生活様式であると述べられている。家政学の原点が読み取れる。
やっと日本が開国の兆を示しつつある時、ヨーロッパのある旅行会社が日本旅行のルートを開拓した。金さえあれば誰でも日本を訪れる事のできることを知ったシュリーマンは中国・日本の探索旅行を思い立ったのである。
ぴりぴりとした非常に危険な日本(江戸幕府)の、しかもそのど真中、江戸への訪問を思い立ったのだ。彼を動かした探究心はその後のトロイ遺跡発掘につながってゆく。大金を使って何の役にも立たない、ただ好奇心からだけで日本にまでやってきて短時間の訪問記であった。
横浜に上陸し、そこからアメリカ合衆国全権公使ポートマン氏を使ってやっと江戸訪問をかなえる事ができた。当時の将軍徳川家茂の行列一行の見学もし,その将軍の顔を直接見ているのである。将軍の顔は「美しい顔であった」と記録している。行列の事細かな事ものべ、行列の過ぎ去った後に残された殺戮場面なども述べている。将軍の行列と知らずに、横切ろうとしたものと思われる。その野蛮さはアステカ王国の奴隷を生きたまま心臓をえぐり出す野蛮さと同じで、やはり整然とした秩序の裏側の残虐性は江戸時代の日本も同じであろう。
印象的だったのは、いろいろやってもらって、心付け(現金)を日本の役人にシュリーマンがわたそうとする場面である。日本人の役人はそれをこばんで、そんな事するならば切腹を選ぶといったという。「日本人に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金をおくることであり、またかれらの方も現金を受け取るくらいなら切腹を選ぶのである。」と記述されている。当時の日本にはその様な常識があったのである。価値観念が金ではなく、自己の心意気であり、その心意気と行為との交換である。今はビジネスの社会、お金で対価を支払うと言うのが常識となっている。昔の日本はそうではなかったのである。
幕末のころの日本を詳細にシュリーマンが観察して記録している。その彼の意気込みはすごく、何から何まで記録するのだといい、最大漏らさず記録しているのである。例えば早朝に仏教行事が行われると聞くと、それに合わせて出かけてゆき、きちんと記録している。シュリーマンのこういった姿勢はきわめて研究者的である。
「私はこの寺でもまた、「唐人! 唐人!」と叫ぶ大群衆に付きまとわれた。」という。外国人に対する日本人の好奇心の強さも記録している。
日本人に皮膚病の患者の多い事を述べている。自らもうつされることを気にして、荷役の業者の選択には彼らの手を見てから疥癬のない業者を雇っている。気になるのは、清潔な日本の中でなぜこの皮膚病が多いのかと述べている。日本人は毎日風呂に入り清潔なのに、なぜこのような疥癬が多いのか気にしている。彼の結論は、日本人は常に刺身を食べているがそれが原因だろうと推論している。面白い着眼点である。
健康第一を何よりも大切にしていた彼は、海水浴を唯一の健康法と信じ、夏は早朝4時、秋冬も5時の水浴を欠かさず、その為に耳疾を悪化させ、ついには命を落としている。常に自己に厳しく最後まで考古学のために身命を賭した壮絶な戦いの生涯であったことを思うと襟をたださずにいられない。
食事で給仕してくれた10代の日本女性についても、「目のさめるような美しくてうら若い十二歳から十七歳の乙女たちが給仕をしてくれる。」とその美しさに驚いている。本当だろう。
この本、「シュリーマン旅行記、清国・日本 石井和子訳」、ご一読あれ。